栄えある第1回大会の予選から、応援にまつわる「事件」は起きていた。1915(大正4)年、北四国大会決勝戦、香川商(現・高松商)対高松中(現・高松高)がその舞台だ。
試合は乱打戦となり、9回を終わって9対9。延長戦に突入した。10回表、先攻めの香川商は2点を挙げ、11対9とリード。これで勝った! と香川商応援団は大喜び。ところがその裏、高松中は自分から投球に向かっていく体当たり作戦で死球を立て続けに奪い、11対11の同点に追いついてしまう。
この反則技に怒った香川商応援団はグラウンドに乱入して大混乱。試合続行が不可能になっただけでなく、香川商も抗議の意味で棄権を選択。結果的に、高松中が栄えある第1回全国大会への切符を手にすることとなった。
第1回大会にまつわる応援団熱狂エピソードはまだまだある。山陰代表決定戦は鳥取中(現・鳥取西高)と杵築中(現・大杜高)との間で行われたのだが、その舞台はなんと本大会の会場である豊中球場。今に当てはめれば、鳥取大会決勝を甲子園で行うようなものだ。
なぜ、そうなったかといえば、熱狂的すぎる応援団同士の抗争を避けるため。じつはこの2年前、鳥取の学校と島根の学校との試合で応援団が暴力沙汰を起こし、大会が中止になったことがあった。その再発を防ぐため、あえて中立地ともいえる大阪・豊中で決定戦を行ったのだ。
これに勝利した鳥取中は、3日後の第1回全国大会にそのまま出場。開幕戦に勝利し、栄えある大会初勝利校となっている。
応援団エピソードを掘り起こすと、とにかく四国を舞台にした事件にぶち当たる。
1922(大正11)年の四国大会決勝戦、高松商対松山商での出来事。決勝の舞台は松山商の校庭だった。試合は1対1で延長に。迎えた高松商の攻撃、ノーアウトでランナーが出塁すると、突然、グラウンドに水が侵入。試合続行不可能なほど水浸しになり、中止になってしまった。実は形勢不利とみた松山商ファンが地の利を生かし、用水の堤を切って水を侵入させたのだ。
翌日、場所を替えて行われた再試合で、松山商が勝利。全国大会出場を決めた。高松商にしてみれば、文字通り「アウェイの洗礼」を浴びた形となった。
高松商対松山商は、まさに因縁の対決。1925(大正14)年の試合では、8対3で高松商が勝利。敗れた松山商ファンはグラウンドに石を投げ入れ、さらにグラウンドに乱入した。標的にされた高松商ナインは70人ほどの警官に保護されて宿舎に引き上げなければならなかった。
翌年は高松市内で試合が行われ、「去年の恨み!」と、松山商ファンを返り討ちにしようとする高松商ファンもいたという。
だが、一部の心あるファンが立ち上がってそのたくらみを未然に阻止。両校の応援団を廃止し、町中に「両校の名誉のため、観覧者諸君は静粛を保ち、選手に礼をもって接すること」というポスターを貼って、円満に試合を進めたという。
以降、四国大会での大きな乱闘劇は見られなくなった。
応援団による乱闘・乱入劇は困ったものだが、それもこれも、必死になるあまりの出来事、といえなくもない。どんな野蛮でも、応援に駆けつけてくれることそのものはありがたいはずだ。
だが、過去に一度だけ、応援禁止の「無観客試合」が実施されたことがある。 2010年の宮崎大会だ。
この年、宮崎では家畜の感染病である口蹄疫(こうていえき)が猛威をふるい、社会問題となっていた。そこで宮崎県高野連は「熱心に支援をしてくれる人々には大変申し訳ないが、口蹄疫の感染拡大阻止を優先した」として、異例の「無観客試合」実施を決めたのだ。
さらに、開会式は実施せず、感染拡大を防ぐため、開催球場を3球場から2球場に減らすことも発表された。
例外として観戦が認められたのは、当該試合の野球部員とその保護者のみ。入場の際には事前に発行された許可証を提示し、消毒液による徹底した防疫が行われた。
今回、過去に起きた「困った応援エピソード」を取り上げたが、もちろん、本来は選手に最後の粘りを与えてくれるのが応援団の存在だ。軽快なブラスバンド演奏もまた楽しい。
夏の思い出に、今年の夏は球場観戦で高校野球を楽しんでみてはいかがだろうか。
文=オグマナオト