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国内キャンプ全盛のプロ野球界…過去には海外キャンプを転機にした球団があった!


 今年のプロ野球春季キャンプで、ひと際異彩を放っているのが北海道日本ハムファイターズだ。球団としては実に29年ぶりの海外キャンプ(アリゾナ州ピオリア)。他球団を見回しても、近年は国内キャンプが主流だったこともあり、大きな注目を集めている。

 過去には海外キャンプが球団にとっての大きな節目となり、チーム改革につながった事例は多い。代表的なエピソードを見ていこう。


1961年、読売ジャイアンツ「ベロビーチキャンプ」


 球団改革どころか、日本球界全体の流れを大きく変えたのが1961年の読売ジャイアンツ・ベロビーチキャンプだ。この年は川上哲治の監督1年目。チーム改革のためドジャースとの合同キャンプを実現させ、そこで「ドジャース戦法」と出会うことになる。

 ドジャース戦法とは、チームプレーを重視し、少ない得点を守り抜くという戦い方。ベロビーチキャンプでこの「ドジャース戦法」に感化された川上巨人は、その年、チーム打率リーグ最下位という貧打線にもかかわらずセ・リーグを制し、1955年以来の日本一も達成。以降、この戦い方が巨人軍のベースとなり、栄光の「V9」へとつながっていったのだ。

 ちなみに、この1961年の日本シリーズで巨人と対戦したのが南海ホークス。チームの主力、野村克也は当時の巨人をこう振り返っている。

「この日本シリーズは精神野球から近代野球への転換を象徴するものであったといえる。(中略)ドジャースの戦法の導入は日本の野球を変える大事件だったのである」(野村克也著『プロ野球重大事件』より)


1972年、広島東洋カープ「アリゾナキャンプ」


 広島といえば「赤ヘル」。その球団史の発端が1972年のアリゾナキャンプにあった。

 球団初の海外キャンプをアリゾナ州で実施した広島。その場所は、クリーブランド・インディアンズのキャンプ地だった縁もあり、ヘッドコーチのジョー・ルーツの指導を受ける機会に恵まれた。

 このとき、ルーツの見識と情熱に惚れ込んだのが松田耕平オーナー。1974年に打撃コーチとしてチームに招聘し、翌1975年には監督に起用。チームの再建をルーツに託すことになる。そして、ルーツが最初に取り組んだ改革こそ、チームカラーを「情熱の赤」に変えることだった。

 つまり、元をたどれば、アリゾナでルーツと出会ったことが「赤ヘル」誕生へとつながったのだ。


1978年、ヤクルトスワローズ「ユマキャンプ」


 1976年に就任した広岡達朗監督のチーム改革が浸透し、1977年には球団初の2位という好成績を残したヤクルト。悲願の初優勝のため、1978年に球団初の海外キャンプを敢行した。「優勝できなかったら私が責任をとる」とまで啖呵を切った、広岡監督たっての希望で実現したという。

 約40日間のキャンプで休日はほぼなし。広岡式の厳しい練習と、大リーグチームとのオープン戦が組まれる毎日だった。当時のチームの主力メンバーだった若松勉は、このユマキャンプを後年、こう振り返っている。

「私はこのユマキャンプでチームが一丸になったと確信した」

 果たして、開幕から順調に勝ち進んだヤクルトは球団初のリーグ制覇を達成。その勢いのまま、日本一も達成。球団初の海外キャンプが、見事に結実することとなった。


 もちろん、海外キャンプを張ったからといって、すべてが好成績につながるわけではない。上述した1972年の広島初の海外キャンプでは、慣れない海外生活でチーム全体が調子を落とし、同年はリーグ最下位に沈んでいる。

 では、日本ハムの今季の海外挑戦は吉と出るのか、凶と出るのか? 個人成績にはどんな影響を及ぼすのか? 大いに注目していきたい。


文=オグマナオト(おぐま・なおと)

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