【特別編】四国で10年戦った男・梶田宙引退。未来のNPB、元NPBの強者たちと一戦を交えてきた10年とは…
年の瀬も迫った12月13日、香川県高松市内で四国アイランドリーグplus10周年の記念パーティーが催された。「プロ野球選手」という夢をあきらめきれない若者の受け皿として発足した独立リーグが節目のシーズンを終え、次の10年へのスタートを切るべく、関係者が一堂に会した。
この席で、リーグのライフタイム・ベストナインが発表された。又吉克樹(中日)らNPBへの扉をこじ開けた5人や阪神で一時代を築いた桜井広大(元香川オリーブガイナーズ)に交じり、アイランドリーグ一筋の4人も壇上に登った。
「10年もやって選ばれなかったら、なに言われるかわかりませんでした」
とそのうちの一人の男が本音をのぞかせると、場内が沸いた。男は宴の締めにも登壇し、次の10年に向けての抱負を語った。その姿は少々ぎこちなく、そして、ほほえましかった。
「ヒーローインタビューなんかとは全然違いますよ。適当なことは言えませんから」
▲左が梶田宙。右が桜井広大。
その男、梶田宙(かじた・ひろし)は、高知へ戻るバスの中、安堵の表情を浮かべて、こう言った。彼は、独立リーグでの長い現役生活を終え、高知ファイティングドッグスの社長として多忙な日々を送っている。リーグ初安打、初盗塁、初得点を記録し、通算最多の650試合に出場した「ミスター・アイランドリーグ」。529本の通算安打は享栄高の1年後輩である国本和俊(元香川)に52本及ばなかった。
高校時代は主将として甲子園の舞台にも立った梶田。しかし、プロは遠い夢でしかなかった。
「あの時点では、全然手の届くところではなかったので、プロ志望届も出しませんでした」
同じ愛知県内には、朝倉健太(中日)、岡本浩二(元阪神)の二枚看板を擁する東邦高という「壁」がいつも立ちはだかっていた。彼らがプロへ進んだ後、ようやく梶田の享栄高は甲子園の土を踏んだ。しかし、ライバル校の1学年上の先輩、この二人の格違いを目の当たりにすると、プロという世界は高い高い「壁」であると感じられた。もう4年、プロへの準備期間を設定し、愛知大に進んだ。だが、大卒時にもドラフトにかかることはなかった。
「結局、プロは小さいころからの夢ではありましたが、現実的な目標ではなかったですね。行けたらなあ、程度のものでした。大学1年で肩をケガして、試合に出られたのは、結局4年からでしたから。スカウトが見に来ることもありませんでした」
長年の不況で就職難だったあの頃、大学時代の実績を考えれば、軟式クラブをもつ地元自動車会社の下請け企業から内定をもらえただけで十分なはずだった。そのはずなのに軟球を手にして不完全燃焼である自分を感じてしまった。
そんな梶田のもとに1枚の紙が示された。「受けてみたら?」。友人からもらったその紙片には、聞いたこともない、独立リーグの選手募集について記されていた。
「なんで、そんなの受けるの」
母親からは、早速釘を刺されたが、「記念受験だ」と返事をし、また自分にも言い聞かせた。ここで落とされれば、踏ん切りもつく。名古屋で行われたトライアウト。受験者の中で、頭一つ飛びぬけているのは自分でもわかった。
「もしかしたら通るかもしれない」の思いは、「通ったら行こう」に変わっていた。その気持ちは2次試験に進んだ時点で確固たるものとなった。合格通知にも、迷うことはなかった。「お前の人生だから」と背中を押す父親に、母親も折れた。
この決断に、なぜ、は野暮な質問だろう。あえて聞いたこの問いに、梶田は3つの理由を挙げてくれた。
「野球を続ける環境を与えてもらったから。そして、『新しいプロ野球』ということに魅力を感じましたね。それに、やっぱりここからプロ(NPB)に進めるかもしれませんでしたから。もちろん、独立リーグで終わることもあるかな、とは思いましたよ。でも、あの時はそういうことも、あまり考えませんでした」
梶田の挑戦に、内定先も辞退を受け入れてくれた。断りを入れるため下げた梶田の頭の横には、もうひとつ、野球部の監督の頭も並んでいた。梶田は覚悟を決めた。
「収入ですか? 会社はボーナスもありますから、全然違ったでしょうね。でも、プライスレスです」
香川県・琴平での初年度の四国アイランドリーガーとなる選手100人合同キャンプ。この時点で梶田は十分にこのリーグでやっていける手ごたえを感じたという。キャンプ終了後、所属球団が決まった。
「まあ、行くところはリーグが決めるんで、とくに感慨もなかったですね」
そういう梶田に新天地の人々は、とにかくあたたかかった。四国に縁もゆかりもない選手たちを高知の人々は、やさしく迎えてくれた。ただ、この時は、10年もここに居続けるとは梶田自身想像もしなかった。
迎えたリーグ開幕戦。2番・左翼手として先発出場した梶田は、先頭打者の凡退を見届けると打席に向かった。リーグ初安打を意識して立った、というこの打席で、この年のシーズン終了後にソフトバンクにドラフト指名される西山道隆(元愛媛マンダリンパイレーツ)から見事に安打を放ち、そのまま生還した。
順風満帆のスタートを切った梶田だったが、シーズンが深まるにつれ、プロの壁を味わうことになる。
「1年目は90試合だったんですけど、しんどかったですね。半年も毎日、野球するのが初めてでしたから。でも、(自分が目指す)NPBは140試合。そこで、プロのすごさを感じました」
結局、この年のドラフトでは指名はなかった。それでも、まだチャンスはあるとプレーを続けた。そんなシーズンを繰り返していくうち、同期の選手たちは次の道を見つけて去っていった。そして、いつの間にか10年の歳月が流れていた。自分より一回りも年下の選手の姿がフィールドで目につくようになる中、自分の野球人生が第4コーナーを回り終えようとしていることを感じるようになった。
今シーズンは、ヘルニアとの戦いから始まった。薬を飲んでなんとか痛みを抑え現場復帰したが、久々に打席に立って見たボールに目がついていかなくなっていた。守りについても、捕れると思ったボールがグラブに入らない。バットを振っても、差し込まれることが多くなった。モヤモヤする中、受けた死球で右手の指を骨折すると同時に心も折れてしまった……。
「10年頑張ったんだから、もういいだろって。デッドボールで現役生活が終わるのは嫌だとかそういうのはもうなかったですね……」
(次回に続く)
■ライター・プロフィール
阿佐智(あさ・さとし)/1970年生まれ。世界放浪と野球観戦を生業とするライター。「週刊ベースボール」、「読む野球」、「スポーツナビ」などに寄稿。野球記事以外の仕事も希望しているが、なぜかお声がかからない。一発当てようと、現在出版のあてのない新刊を執筆中。ブログ「阿佐智のアサスポ・ワールドベースボール」(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041)
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