筆者が住む長野では、ノーシードの松商学園が優勝。9年ぶり36回目の出場を勝ち取った。一方、筆者が肩入れして見守った小諸商は、松商学園と準々決勝で対戦し、4対5で惜敗。松商学園の「古豪の壁」に跳ね返され、悲願の甲子園出場は持ち越しになった。
それにしても、惜しい戦いだった! 東京ドームには、太平洋戦争で命を散らしたプロ野球選手を慰霊する「鎮魂の碑」があるが、そこに沢村栄治(元巨人)らとともに名を刻む小諸商OBの渡辺静も、草葉の陰で同じ思いでいるはずだ。
先述の準々決勝は、小諸商が2回表までに4点をリードする展開だった。しかし、途中から登板した松商学園の2番手投手・青柳真珠の緩急を交えた投球に勢いを止められると、終盤に逆転を許して4対5で惜敗。
春季長野県大会を制し、第1シードで今大会に臨んだ小諸商は好投手・高橋聖人を擁し、満を持して「甲子園切符」に挑んだが、ベスト8に終わった。
残念ながら今夏の悲願達成はならなかったが、2011年に竹峰慎二監督が就任して以来、小諸商は力をつけてきた。直近の2年の夏はいずれもベスト4。佐久長聖などの甲子園出場経験校を脅かし、高校野球ファンの間でも知られる存在になってきた。しかし、今から70年以上前にも世間をアッと言わせことが実はあったのだ。
小諸商が、世間を驚かせたのは、冒頭で触れた渡辺が小諸商で白球にかけた青春期を送った1941(昭和16)年のことだ。
その年の4月、センバツの優勝チームで全国屈指の強豪だった愛知の東邦商(現東邦)が遠征にやってきた。約1万の観衆が見守るなかで行われた練習試合で、小諸商は延長12回3対3引き分けと下馬評を覆す大健闘を見せたのだ。
当然、センバツ優勝校と互角に渡り合った渡辺ら小諸商球児の士気は、甲子園出場へ向け高まる。しかし、時代が彼らの夢を絶った。戦局の悪化を受け、7月に文部省が夏の甲子園中止の命令を下したのだ(中止期間は1945[昭和20]年まで続くことになる)。
夢を目指そうにも目指す場がなくなったことに、渡辺たち当時の球児はショックを受けたはずだ。国際情勢が悪化していくなか、12月8日、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争に突入していく。
小諸商を卒業した渡辺は、野球用語が日本語に改められ、東京六大学野球が解散を命じられた1943(昭和18)年、今のDeNAにつらなる朝日軍に入団している。
当時、男子は20歳になると徴兵検査を義務づけられていたが、高等教育へ進学すると免除されていた。その頃のプロ野球チームは「昼は野球、夜は専門学校で高等教育を受け、卒業までは兵役免除」という条件を最大の説得材料にし、全国から有望選手を集めたという。
いろいろな思いが複雑に交錯するなか、渡辺も家族会議で何度も話し合った末に朝日軍への入団を決めたことが、その伝記『白球にかけた青春 ─陸軍特攻隊員 渡辺静─』に綴られている。
しかし、渡辺のプロ野球選手としての活動期間は1年にも満たなかった。公式戦2試合に出場し、代打での2打席で三振と三ゴロという記録を残して、戦況悪化に伴う学徒出陣で渡辺も秋に入隊した。
以降、日本各地の飛行場を転々としながらパイロットとしての養成訓練を受けると、1945(昭和20)年6月6日、鹿児島・知覧基地から特攻出撃。辞世の句「いざ征かん 雨も風をも 乗越えて 吾れ沖縄の球と砕けん」を残し、22歳で戦死した。
ここ数年、夏の甲子園を目指す地方大会が始まる7月、そして甲子園で熱戦が繰り広げられる8月を、筆者は渡辺の無念と平和の尊さ、小諸商の悲願を胸に抱きながら「No Baseball, No Life.」という想いで送っている。
文=柴川友次
NHK大河ドラマ「真田丸」で盛り上がった信州上田に在住。郷里の英雄・真田幸村の赤備えがクリムゾンレッドにみえる、楽天推しの野球ブロガー。開幕前から楽天有利、ホークス不利の前半戦日程を指摘、イーグルス躍進の可能性を見抜いた。