PL学園高校の清原和博と、東北高校の佐々木主浩。同級生の二人はともに何度も甲子園に出場しているが、甲子園での対戦経験はない(※清原:1年夏から5季連続。佐々木:2年夏から3季連続)。
そして、仮に対戦が実現していても「ライバル」にはならなかったはずだ。それほど、清原の実力は同級生のなかで抜きん出ていた。このことは、佐々木自身が自著の中で認めている。
《高校時代、僕は彼のファンだった。(中略)当時の甲子園でPLの清原、桑田といえば大スターもいいところだった。甲子園でふたりを見つけただけで、僕たち他校の生徒は大騒ぎになったものだった》(佐々木主浩『大魔神伝』より)
ライバルではなく、ファン。それが高校時代の二人の関係性だった。
ちなみに、二人が初めて出会った(お互いを認識した)のは、高3秋の鳥取国体。清原を見つけた佐々木が記念撮影を頼んだのがキッカケだった。ただ、この国体でもPL対東北のカードは実現しなかった。
その後、PLに佐々木と親しい選手がいたことから、その選手を介して清原とも会話をするようになり、より親しくなるのは大学(東北福祉大)に入ってから(清原は西武入団後)だったという。
清原のプロ入りから4年後、1990年に横浜大洋ホエールズに入団した佐々木。二人の初対決は1992年のオールスターゲーム・第3戦。舞台は佐々木の故郷・宮城県仙台市にある県営球場(現・楽天Koboスタジアム宮城)だった。
1992年は、佐々木が開幕から1年間ストッパーを務め、初タイトルである最優秀救援投手を獲得した、いわば「ブレイクした年」といえる。そんなセ・リーグ期待の新ストッパー対パ・リーグの4番・清原和博として、二人は相まみえた。
佐々木はこのとき、代名詞であるフォークではなく、ど真ん中のストレートで勝負。その渾身の一球を清原のバットが一閃。ライトスタンドに突き刺さるホームランとなったのだ。
《打たれても、心地よかったことを覚えている。甲子園の大スターと、こうして対戦できたことのほうがはるかにうれしかった》(佐々木主浩『大魔神伝』より)
ちなみにこの試合、佐々木は2イニングを投げ、打たれたヒットは清原の1本のみ。3つの三振を奪い、セーブも記録している。
その後、清原は1997年にセ・リーグの巨人に移籍。清原対佐々木はシーズン中にも実現することとなった。
ただ、公式戦で、しかも1点勝負の場面で投げることが多いストッパーという立場で、ストレート勝負はできるはずもない。でも、ストレートで勝負したい。だからこそ佐々木は、清原との勝負において配球を自分では決めず、すべて捕手の谷繁元信にまかせていたという。
佐々木は2000年にメジャーリーグに移籍。2004年に横浜ベイスターズに復帰し、翌2005年に現役引退。引退試合となったのが、8月9日の巨人戦だった。
この試合の2回無死一塁、打者清原の場面で「ピッチャー佐々木」がコールされた。舞台は奇しくも、初対決と同じ宮城球場(※当時はKスタ宮城)だった。
この対決はストレートで1ボール2ストライクと追い込み、最後は128キロのフォークで空振り三振。スイングを終えた清原は涙を浮かべながら佐々木に歩み寄り、握手を交わした。
あれから11年。グラウンドではなく、法廷という場で相まみえた二人。閉廷後、清原被告の背後を通って退出しようとした佐々木氏は、すれ違いざまに右手を差し出し、清原被告と握手を交わしたと報道されている。
その握手に、これからどう応えていくのか。検察側は懲役2年6カ月を求刑。判決は31日に言い渡される。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)