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もうひとつのドラフト―反抗児、長坂秀樹のたぐり寄せられなかった夢―

 今年もドラフトで多くの若者が指名された。指名後の祝賀ムードとは裏腹に、この先に待つのは厳しい競争である。彼らのうち、5年後にプロ野球界に選手として身を置いている者はどのくらいになるだろうか。

 それでも彼らはまだいい。一度であっても、プロのフィールドに立つというチャンスを手にしたのだから。ドラフト指名された選手の裏側には、その数倍の「ドラフト候補選手」が存在する。そんな候補選手たちとドラフトで指名された選手、特に下位指名の選手との力の差は紙一重。場合によっては、指名を見送られた選手の中には、指名選手より実力がある者もいるだろう。

 夢をたぐり寄せながら、「ドラフト候補選手」のままを野球人生終えてしまう理由は様々だ。リストアップした球団の選手事情やFA事情などのタイミング、あるいはケガ、そして年齢。ここで紹介するのは、エリートコースから「寄り道」しながらも、夢をたぐり寄せようとしたある男のストーリーである。


 長坂秀樹の名を知っているのは、余程の野球マニアだろう。18年前、長野の東海大三高のエースとして甲子園の舞台に立ち、東海大では主戦投手として1998年の大学選手権準優勝に貢献した。168センチの少々ずんぐりした体から150キロの剛球を投げ込んでいた。野球エリートコースを歩み、前途洋洋に思えたのだが……。


▲東海大三高ではエースとして甲子園に出場[写真提供:長坂秀樹]

「いやもう、ひどかったですね。とにかく反抗しっぱなしでした。監督からはいつもゲンコツもらってました」

 当時の東海大監督は伊藤栄治。あの原貢の後を受けて東海大学の黄金時代を築いた名将だ。まだ30代の血気盛んな青年監督と、生意気盛りの野球小僧は何かとそりが合わず、衝突を繰り返していた。上背のなさを補うべく伊藤が勧めたサイドスローにも全く耳を貸そうともせず、少数精鋭主義の監督方針に、「たくさんメンバーがいるんだから、もっと他の選手を使ってくれ」と采配批判ととられかねない直談判までした。

「もともと、どうしてもプロに行きたい、とは思ってませんでしたから」

 そこまでの気持ちがない長坂は、2年の終わりを待たずに野球部を飛び出してしまう。高校時から目をつけていたスカウトたちは、この若者の無鉄砲さを嘆いた。

 その後の2年間を普通の大学生として送り、就活をし、宝石店に職を得た。2001年春、長坂は新宿の百貨店にジュエリーアドバイザーとして勤務することになった。

本場アメリカのBaseballへ


 しかし、なにか満たされない。悶々と毎日を送る長坂のもとに一つの知らせが舞い込んだ。高校時代の同級生が、アメリカに渡ったらしい。大学ではセレクションに落ち、準硬式でプレーしながらも、あきらめきれない夢を追って独立リーグに挑戦する元同僚の姿がまぶしく見えた。

「お前も『野球』じゃなく、『Baseball』をやってみれば?」

 電話口の向こうの久々に聞いた声は、希望に満ちていた。日本でやってきた野球とアメリカのBaseballはそんなにも違うのか、なら自分も試してみたい。

 気が付けば、辞表を提出してアメリカ行きの飛行機に乗っていた。半ば飛び込みで受けたトライアウトには一発合格した。2002年夏、長坂は3年ぶりにフィールドに立った。その後、2004年には、当時独立リーグ最高峰と言われたノーザンリーグでプレー。メジャー球団にピックアップされてゆくチームメイトを見送りながら、世界最高峰のプロリーグが手の届くところに来ていることを感じた。

魅力を感じない日本式


 しかし、ここから流れが変わる。翌2005年シーズン途中、新興の独立リーグ球団、ジャパン・サムライベアーズにトレード。


▲サムライベアーズ時代[写真提供:長坂秀樹]

 この日本人球団はシーズン終了後、サムライ・ファイアーバーズと名を変え、日本各地を転戦した。日本のプロ球団への見本市として行われた、この転戦をチームメイトは目の色を変えて臨んだが、長坂は違っていた。日本には、エリートコースからこぼれ落ちた人間が再び戻る道筋がない、と冷めた目で見ていたからだ。

 そこで、一番、乗り気ではない長坂に注目が集まったのは皮肉である。アメリカで取り戻した自信と実績、その「プロレベル」のポテンシャルは見逃されなかった。まず、1年目のシーズンを記録的な敗戦数で終えた楽天のトライアウトが特別におぜん立てされた。

 しかし、長坂は最後までフィールドにいることはなかった。まがりなりにも本場アメリカでプロのマウンドに立っていた彼に命じられたのは、走力テストだった。

「アップはもういいです」

 アピールのため必死にダッシュを繰り返す参加者を尻目に、1人でベンチに戻った長坂に声がかかることはなかった。球場を飛び出し、新幹線に飛び乗る前にせっかくだからと名物の牛タンをつまみながら酒をあおっていた長坂の横に、大男が座った。当時、日本に肩を並べる者がいなかった不動のエース・斉藤和巳(元ソフトバンク)だった。

千載一遇のチャンス。ソフトバンクとの運命の出会い?


 その才能がそのまま埋もれていくのを惜しんだのだろう、今度はソフトバンクと話をつけてくれたのだ。しかし、長坂はこれをも拒んだ。わがままにもほどがあると思われる、この所業だったが、長坂なりのポリシーが隠されていた。

「プロとは乞われて行くところ」

 この哲学が首を縦に振らせなかったのだ。それでも、やんちゃ坊主はなだめられ、粘り強い説得と熱意に、長坂も折れた。

「それでも行く気にはならなかったのですが、サムライベアーズの南(容道/法政大→レッドソックスマイナー)もテストを受けていて、『ちゃんと個人的にしっかり見てくれるから、ナガ、絶対に行った方がいいよ』って言うもんで……」

 実際、現場には長坂しか「受験者」はいなかった。グラウンドの隅では当時2軍監督の秋山幸二を含む少数のスタッフが長坂のピッチングに視線を注いだ。その後、練習にも参加して、トライアウトは終了した。「検討の上、また連絡する」というスタッフに電話番号を伝え、長坂は新幹線で横浜に戻った。少し日を置いて、携帯電話が鳴った。電話の声は編成部長だった。

「もう一度、来てくれないか」

 再び福岡に戻った長坂には寝床が用意されていた。西戸崎の2軍宿舎の一室があてがわれた。

 翌日、2軍の球場での練習に参加した。足を踏み入れたフィールドには、1軍のそうそうたる顔ぶれが並んでいた。プレーオフで敗退を喫したばかりのソフトバンクであったが、レギュラーシーズンを制したチーム。この前年に三冠王となり、全盛期を迎えていた松中信彦、のちにメジャーでプレーすることになる和田毅に川?宗則……。そして、斉藤和巳。ひと月前、仙台の牛タン屋で偶然、隣席に座っていた大エース。もちろん、声などかけることはできなかったものの、同じフィールドに立っている大エースとの距離は少しだけ縮まったように思えた。

 ベンチに目を向けると当時1軍監督の王貞治の姿があった。長坂は、シートバッティングやピッチングの一挙手一投足に「世界のホームラン王」の視線が注がれるのを感じた。

「縁があったら一緒に出来るな」

 グラウンドを去る時、王、秋山から、手が差し出された。「プロ」が一番近づいた瞬間だった。


■ライター・プロフィール
阿佐智(あさ・さとし)/1970年生まれ。世界放浪と野球観戦を生業とするライター。「週刊ベースボール」、「読む野球」、「スポーツナビ」などに寄稿。野球記事以外の仕事も希望しているが、なぜかお声がかからない。一発当てようと、現在出版のあてのない新刊を執筆中。ブログ「阿佐智のアサスポ・ワールドベースボール」(http://www.plus-blog.sportsnavi.com/gr009041)

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