甲子園の見どころは、球児たちのプレーだけではない。
アルプススタンドに陣取った出場校同士の応援合戦、特にブラスバンドによる演奏は高校野球ファンを楽しませてくれる。最近ではオーケストラ顔負けの演奏をスタンドから響かせる高校もあるなど、かなりグレードアップし洗練されてきた。こうした応援スタイルは、一朝一夕に成り立ってきたものではない。
そこで今回は、“甲子園の応援”についての歴史をひも解いてみたい。
1923年の第9回大会・準決勝は、日曜日ということもあって球場は空前の人出。正確な人数は不明だが、スタンドから人が溢れてしまい、当時使用していた鳴尾球場のグラウンド内に入り込んでしまった。このハプニングで試合は1回裏で中断。仕方なく隣の第二球場で第2試合を行うなどして応援団や観客を分散させ、何とか大会を続行させた。この事件を契機に多くの観客を収容できる甲子園球場の建設が始まったといわれている。
その翌年となる1924年から、甲子園球場で大会が行われるようになり、高校野球人気はさらに高まっていった。観客席も大きくなり、大応援団を派遣することもできるようになったが、当時はまだ統率のとれた応援スタイルは皆無。というのも、出場校は見よう見まねで応援するだけが精一杯だったからだ。なかにはアルバイトとして応援団長を募集した学校もあったが、しょせんアルバイトの寄せ集め軍団。その応援ぶりもただのドンチャン騒ぎに過ぎなかったという。
地方大会の出来事だが、四国の高松商と松山商の応援団たちの“犬猿の仲”は有名だ。1925年の両校の試合では、8−3で敗れた松山商ファンが腹いせにグラウンドに石を投げ、そのうちグラウンドに雪崩れ込んできた。標的にされた高松商ナインは70人ほどの警官に保護されて宿舎に引き上げたという。
翌年は高松市内で試合が行われ、松山商ファンを返り討ちにしようとする高松商ファンもいた。だが、一部の良識ある人々が立ち上がってこれを未然に阻止。両校の応援団を廃止し、町中に「両校の名誉のために観覧者諸君は静粛を保ち、選手に礼をもって接すること」というポスターを貼って、円満に試合を進めた逸話が残っている。
※当時は1県1代表制ではなかった。1915年(第1回)から1947年(第29回)まで四国大会、1948年(第30回)から1975年(第57回)まで北四国大会(愛媛と香川)を経て、甲子園出場が決まった。1976年の第58回大会より愛媛単独で代表校を選出できるようになる。
第二次世界大戦直前の1939年頃の甲子園では、時節柄、派手な応援は禁止に。その代わり、閉会式は「万歳」で終わりにしなければならず、スタンドの観客は総立ちで「万歳三唱」を繰り返した。また、軍人・官僚が幅を利かせ、専用の“観戦席”ができるなど、甲子園のスタンドは混迷を極めた。
時代とともに移り変わる、高校野球の応援スタイル。高校野球100年の歴史は、野球に熱狂したファンの歴史でもあるのだ。