甲子園大会が終わっても、高校野球の季節は終わらない。舞台は秋季大会へ。早い地域では、すでに来春の選抜出場をかけた戦いが幕を開けている。甲子園出場を逃して早々と新チームに移行した学校もあれば、甲子園での経験を武器にさらに一皮むけようという学校も含め、残暑厳しいグラウンドで汗と土にまみれた練習を繰り広げているはずだ。
野球というスポーツが日本に上陸した明治初期、各校では次々と野球部が創部された。なかでも現在の東京大学教養学部の前身である旧制一高は野球部の強化に注力し、自前で野球専用グラウンドを所有するほど熱心であった。その理由は、日本を代表する学力を誇る同校は、野球に関しても日本ナンバーワンでなければならなかったからだ。
そんな旧制一高の野球部では、他の野球部に負けるまいと連日、猛練習が行われていた。古い文献のなかに記されている練習方法で驚くのは、投球練習のし過ぎで右腕が曲がってしまった投手が、桜の木の枝に腕を吊して曲がった腕を真っ直ぐに治す練習を行っていたこと。そこまでやるなら、腕が曲がるまで投げなければよいと思うのだが……。
無敵の旧制一高の野球部に追いつけ追い越せと、日本各地で野球熱が高まっていたのが大正時代初期。なかでも1917(大正6)年の第3回夏の甲子園で優勝した、愛知県の愛知一中には鬼のような野球部OBがいた。
連日連夜、後輩たちをシゴいていたそのOBは、なんとお寺の和尚さん。大須・万松寺の住職を務める伊藤寛一という人物で、寺にいるよりもグラウンドにいる時間のほうが長く、後輩たちにとっては何ともありがた迷惑な先輩だったようだ。
その“鬼畜和尚”は後輩たちに素手でキャッチボールをさせ、選手たちは冬場になるとアカギレなどで血が噴き出し、ユニフォームが真っ赤に染まったという。また、全国大会に出場するナインには「我々は天下を取った織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の子孫だ。だから対戦チームは皆、家来の子孫である。家来に負ける訳はないから、全国優勝するのは我々だ!」とよくわからない教えを説き、後輩を励ましたという記録が残っている。
最後は、広島の古豪・広島商の昔の練習方法を紹介しよう。後にプロ球団の監督も務めた石本秀一監督が率いていた当時の広島商では、日本刀の刃を上に向けて、その上を素足で歩くという“精神鍛錬”の練習が行われていた。
石本監督曰く「気合いがあれば痛いことはない」と、もはや野球の練習とはいえない、理屈を超えた練習が行われていたのだった。ちなみにこの練習が役立ったのかは不明だが、広島商は1929(昭和4)年の第15回大会で見事、全国制覇を成し遂げている。
いずれにせよ、よい子の皆さんは決してこんな練習を真似しないように!