楽天の星野仙一監督が、腰椎の椎間板ヘルニアと胸椎の黄色靱帯骨化症(おうしょくじんたいこっかしょう)の併発によりチームを離脱。当面は佐藤義則投手コーチが監督代行を務めることになった。
厚生労働省が難病に指定している「黄色靱帯骨化症」は、脊髄の後方にある椎弓と呼ばれる部分を上下につないでいる靱帯(=黄色靱帯)が骨化して脊髄が狭くなり、神経の圧迫症状が出現してくる病気だ。症状としては下肢の脱力やしびれがみられ、悪化すると両下肢麻痺につながる場合もある。
興味深いのは過去、何人もの野球人がこの病と闘ってきた歴史があることだ。これまでに黄色靱帯骨化症を患い、手術に踏み切った選手たちを振り返ってみたい。
1988年ドラフト1位でオリックスに入団。エースナンバー「18」を任された酒井は期待どおりの活躍を見せ、9勝9セーブで同年の新人王に選ばれる。サイドハンド気味からの頭脳的な投球で1992年には初の2ケタとなる10勝を挙げ、いよいよこれからと臨んだ1993年に黄色靱帯骨化症を患い、シーズン中に手術の道を選択する。
その後、リハビリを重ねたものの1軍に復帰することは叶わず1996年に現役引退。その後、オリックスの投手コーチなどを経て、現在は楽天の2軍チーフ投手コーチを務めている。
宮本もドラフト1位で近鉄に入団し、3年目の2002年には150キロ超の力強いストレートを武器にして、1軍で35試合に登板するなど、主に中継ぎとして活躍していた。しかし、2006年のキャンプ中に左足に違和感を覚え、診断の結果、黄色靱帯骨化症と判明し手術。
術後は痛みで寝返りも打てないほどだった。その後、1年以上をリハビリに費やし、2007年の春には投球できるまで回復。一時、育成選手契約となったが、2008年7月に約4年ぶりとなる1軍昇格を勝ち取った。その後、2009年に現役を引退している。
セットアッパーとして2008年に頭角を現し、2009年には山口鉄也との「風神雷神コンビ」で巨人の日本一にも貢献した越智大祐。ところが2012年、春季キャンプから右足にしびれを感じるようになり、開幕を迎えても症状はひどくなるばかり。4月に1軍登録を抹消され精密検査をしたところ黄色靱帯骨化症と判明し、同年6月28日に手術を受けた。
リハビリ生活の後、2013年3月の2軍戦で実戦復帰。背番号が22から67に変わった今季、ファーム戦の実戦登板を重ねながら1軍復帰を目指している。