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祝・中日入団! 球界一の愛されキャラ・多村仁志の野球人生


 2016年1月15日、DeNAを自由契約になっていた多村仁志が育成契約で中日に入団することが発表された。御年38歳と10カ月。NPB史上最年長の育成選手となり、球界に生き残ったのだ。

 多村といえば、度重なる不運なケガも有名で、ネット上では「スペランカー」の代名詞がくっついてくる。1983年に発売されたファミコンゲーム『スペランカー』の主人公が少しの段差などですぐ死ぬことから命名されており、今では「ケガしがちな選手」を「スペ体質」などと評することも多いが、元祖は多村だと思われる。

 季節の変わり目には風邪を引いたり、すぐにインフルエンザに罹ったり、ハッスルプレーや全力疾走をするとケガをしないか不安になったり、何かと母性本能をくすぐる多村も、今年でなんと22年目。

 数多くの登録抹消と復帰を繰り返した彼の野球人生を振り返ってみよう。


芽を出した“6ツールプレーヤー”


 多村が本格デビューを果たしたのは2000年。23歳で7本塁打を放ち、球界にその名を轟かせると、2004年には40本塁打、翌2005年にも31本塁打を記録。打ってよし、守ってよし、走ってよしのバイリティあふれるプレーを見せていた。

 この時期も細かいケガは多かった。極めつけは2005年6月、高速道路での事故だ。愛車が雨でスリップし、激しくスピン。側壁に衝突し、左顔面と左肩を強打した。事故の瞬間は「死んだ」と思ったらしい。

 意外にも頑丈さを見せた多村だが、この頃、実は「5ツールプレーヤー」ならぬ「6ツールプレーヤー」を自称。2004年に背番号を「6」に変更したこともあるだろうが、6つめのツールはなんと「ファッション」。

 球界のオシャレ番長を目指すと意気込んでいたが、プログレすぎるファッションは時代の遥か先を行っていたようで、小市民には理解されなかった。

 2006年の春先には第1回WBCのメンバーに選出。多村の怒涛の海外進出がはじまった。


キューバでレジェンドに…!?


 2006年のWBCに多村は全試合出場。季節の変わり目やインフルエンザの流行もなんのその、3本塁打9打点でチーム2冠に輝いた。

 この大会を通じて多村にド肝を抜かれたのは決勝で戦ったキューバの選手たち。2014年に巨人入りしたキューバの英雄・セペダは日本でのデビュー戦で2006年の当時、多村からもらったバットを使用している。

 のちにDeNAでチームメイトになったグリエルも「タムラサンはキューバの野球観を変えたレジェンド」と絶賛している。


大ケガ、そして2度の移籍


 キューバ野球界の憧れになった多村だが、その年の6月、本塁クロスプレーで肋骨を4本骨折。あえなくシーズンを棒に振り、オフにはソフトバンクに移籍した。

 翌2007年の多村は違った。4度の肉離れの中、自己最多の132試合に出場。「痛みを我慢することを覚えた」と周囲から絶賛されていた。

 しかし、2008年はまさかのアクシデント発生。守備中に長谷川勇也と激突し、右足腓骨骨折。わずか39試合出場に留まった。

 それでもその後は寝違え、気管支炎、腰痛などを乗り越え、フル出場とはいかないものの、体が頑丈に進化。2009年に「6ツール」のファッションをメンタリティに変更した影響もあるのだろう。

 2012年オフにトレードでDeNAに復帰してからは、出場機会が限定され、苦しい3年間を過ごした。

 ケガがなかったら…。そう思わせるだけのプレーが、多村にはある。通算安打は1162本だが、数字以上にファンをワクワクさせ、ファンから寵愛を受ける存在。新天地・中日で全試合フルイニング出場を見てみたい!


文=落合初春(おちあい・もとはる)

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