球界の至宝・イチロー。だが、もちろんはじめからスーパースターだったわけではない。ドラフト4位という入団時の評価がそれを物語っているだろう。アメリカに渡るときも期待が大きかった反面、「イチローのパワーでは通じるはずがない」という声も多かった。そんな周囲からの低評価をイチローはこれまでどのように覆してきたのか。その過程を振り返ることで、改めてイチローがイチローたる所以を探ってみたい。
【周囲の低評価にも自分を曲げなかったイチロー】
「変えなきゃダメなんですか、プロって?」
1年目から2軍のウエスタンリーグで首位打者を獲得するなど非凡な才能を見せていたイチロー。しかし、当時の1軍首脳陣からの評価を驚くほど低く、2年目のあるとき、1軍打撃コーチから「最後のチャンスだ。俺の言うことを聞く気があれば教えてやる。聞く気がないなら自分で勝手にやれ」と高圧的な態度で「変化」を迫られてしまう。
普通に考えれば、まだ10代の若者が1軍コーチから「変えろ」と言われれば従うものだ。実際、当初はイチローもその声に耳を傾けたからこそ、打撃フォームに狂いが生じていた。ところがイチローはとうとう、「自分のやり方でやらせてください」とキッパリ断ったのだ。
もちろん、すぐに2軍行きとなったイチローが当時の2軍打撃コーチである河村健一郎氏にこぼした愚痴が冒頭のセリフである。イチローが幸運だったのが、この河村コーチが誰よりもイチローの才能を評価していたことだ。
「プロの世界ではコーチはしょっちゅう変わるもんだ。そのたびに変えていたらどうなる? お前は打てるんだから変えることなんかないよ。今のバッティングを伸ばしていくことだけ考えればいいんだ」(河村健一郎著『イチローの育て方』より)
そこから改めて、河村コーチと二人三脚で打撃フォームを固め、翌年の「シーズン210安打」につなげたのは有名なエピソードだ。
もしも「変えろ」と言われたあのときに頷いていたとしたら、レギュラー獲得は早かったかもしれないが、今日のイチローの姿は間違いなく無いだろう。どんな状況でも自分を信じ、曲げない意志の強さがイチローの強みであることは間違いない。
【周囲を黙らせ、認めさせるには結果がすべて】
イチローが自分を曲げずに突き進むことができたのは、ここぞという場面で常に結果を出し続けたから、というのも非情に大きい。
イチローのもう1人の理解者としてよく名前が挙がる仰木彬監督。仰木監督がイチローを抜擢した理由はキャンプやオープン戦の成果だけではない。イチロー2年目のオフ、ハワイで行われたウインターリーグで、イチローは日本人選手で唯一となる打撃十傑入り(2位)を果たす。そして仰木監督はこのウインターリーグを視察していたのだ。
こうした教育リーグでは、ときに調整や課題の克服を重視して、結果が伴わない場合も多い。もちろんそのやり方も間違いではない。だがイチローは監督の目の前で結果も出したからこそ、3年目のシーズンで開幕スタメン入りを果たしたのだ。
メジャー移籍後も、イチローは大事な場面でちゃんと結果を出し続けた。オープン戦でメジャー投手にタイミングがあわず、レフト方向にしか打球が飛ばなかったイチローを「やはりパワー不足だ」、「走りながら打つあのフォームでは、95マイルの速球は打てない」と見る向きも少なからずあったという。
そんな中、その次のオープン戦だけは4打席ともライト方向に引っぱり続け、4打数3安打と結果を出してしまう。
「だって、そうしないとうるさいんだもん」と笑い飛ばすイチロー。しかし、ここで首脳陣に「ちゃんと右方向にも打てる」ことを示したからこそ、改めでメジャー投手にアジャストするための打撃フォームの確認に専念できるようになり、開幕以降のヒット量産につなげたのだ。