「ミスタータイガース・背番号31」が甲子園に戻ってきた。阪神の2軍監督に育成&打撃コーディネーターの掛布雅之氏が就任。秋季キャンプでは金本知憲新監督とともにユニフォーム姿で登場し、27年ぶりとなる「背番号31」のお披露目となった。
千葉・習志野高2年時には夏の甲子園に出場した掛布だったが、全国的には無名の存在だった。1973年秋、高校3年生の掛布は阪神の入団テストを受け、6位指名にこぎ着ける。なんとかプロ野球選手としてスタートを切ることができた。
掛布は豊富な練習量でメキメキと頭角を現し、3年目の1976年には開幕からレギュラーに定着。この年は打率.325、27本塁打と好成績を残してセ・リーグのベストナインを受賞する飛躍のシーズンとなった。
圧巻だったのは3年連続3度目の出場となった1978年のオールスター戦だ。後楽園球場で行われた第3戦では、4回、5回、8回と、オールスター初となる3打席連続本塁打を放ち、文句なしでMVPを獲得。掛布の名前は一躍全国区となった。
そして1979年、前年オフに田淵幸一が西武にトレードされ、チームの主砲の役割を担うこととなる。掛布は小さな体をフルに使ったスイングで本塁打を量産。王貞治(巨人)、山本浩二(広島)らを抑え、当時の球団最多記録を更新する48本塁打で初の本塁打王に輝いた。
しかし翌年は一転、左ひざ半月板の負傷もあってスランプに陥り成績が低下。チームも5位に終わり、ファンの怒りの矛先は掛布に向けられた。
捲土重来を期して臨んだ1981年は開幕から4番打者に座り初のフル出場。打率は.341と自己最高の結果を残し復活を遂げる。さらに翌82年は35本塁打、95打点で二冠王に。
1984年には37本塁打(中日・宇野勝と同数)で3度目の本塁打王となり、その活躍から「ミスタータイガース」と呼ばれるまでになる。特に同学年の巨人・江川卓とのライバル対決は、伝統の一戦にふさわしい一騎打ちとして注目を集めた。
1985年は、何と言っても4月17日の甲子園での巨人戦だろう。7回、3番・バースがバックスクリーン直撃の本塁打を放つと、4番の掛布も続き、打球はバックスクリーン左へ。さらに5番・岡田彰布もバックスクリーンへ放つ3者連続本塁打と、この年の阪神を象徴する試合となった。
勢いに乗った阪神は快進撃を続け21年ぶりのリーグ優勝、日本シリーズでは4勝2敗で西武を倒した。掛布はこの年、バースの三冠王もあって打撃タイトルは逃すも、打率.300、40本塁打、108打点と優勝に大きく貢献。吉田義男監督は「ウチには日本一の4番打者がいるから」と最大級の賛辞で掛布の活躍を称えた。
「日本一の4番打者」となった掛布だったが、1986年は一転して風向きが変わる。
4月20日の中日戦では斎藤学の投球を左手首に受け骨折。1981年の開幕から続けていた連続試合出場は663でストップする。
さらに故障が相次ぎプロ入り後最少の67試合の出場、成績も打率.252、9本塁打、35打点と前年を大きく下回った。
その後、左手首骨折の影響もあって全盛期のバッティングは戻ることはなく、1988年の9月に現役引退を表明。「引退はまだ早い」と他球団から獲得のオファーがあったが、「阪神一筋で現役を終えたい」という本人の意思もあり全て断った。
引退試合となった10月10日のヤクルト戦は「4番・サード」で出場。満員となった甲子園球場は、掛布最後の勇姿を見ようと大勢の阪神ファンが駆けつけた。
8回の現役最終打席では四球を選び、15年間の現役生活にピリオドを打った掛布。現役通算本塁打は阪神の生え抜き選手では最多の349本。今度は2軍監督として新たなる「ミスタータイガース」の育成に力を注ぐ。
文=武山智史(たけやま・さとし)