今、球界で徐々に知名度を上げつつあるのが「R&R」だ。ロックンロールではなく、中日のロドリゲスとR.マルティネスのリリーバーコンビである。
交流戦終了までにロドリゲスは36試合に登板し、防御率2.12で23ホールドを記録。R.マルティネスも27試合で防御率3.51、3セーブ、11ホールド。チームは5位と苦しい戦いを強いられているなかで奮闘中だ。交流戦のラストカード、日本ハムとの3連戦では、いずれもロドリゲスからR.マルティネスへとつなぐ継投で締めて3連勝。勝利の方程式として確立しつつある。
この「R&R」のように、愛称がつけられるコンビやトリオ、あるいはそれ以上の人数でのチーム内ユニットは過去にも存在した。いくつか掘り起こしてみたい。
2000年代初頭から、中日で鉄壁の二遊間を形成していたのが荒木雅博、井端弘和の「アライバ」だ。熊本工高出身の荒木が1995年のドラフト1位、亜細亜大出身の井端が1997年のドラフト5位で入団。コンビ発足は2001年だが、完全に定着したのは、荒木が二塁手のレギュラーとしてシーズンを通して出場するようになった2002年。そこからコンビネーションが熟成されていき、2004年から2009年の6年間は、両者で二遊間のゴールデン・グラブ賞を独占、そのうち2004年から2006年はベストナインにも合わせて選ばれている。
同一チームの二遊間が同じ年にゴールデン・グラブ賞を受賞することは、実は決して多いことではなく、まして連続となると、アライバ以外では1975年から1976年にかけての阪急の二塁手・大橋穣と遊撃手・マルカーノのみ(当時はダイヤモンドクラブ賞)。6年連続のアライバがコンビとしていかに突出していたかがおわかりいただけるだろう。
岡田彰布監督が阪神を率いていた時代に結成された「JFK」。「J」はジェフ・ウィリアムス、「F」は藤川球児、「K」は久保田智之と3投手の頭文字からのネーミングで、トリオとしての活動はおもに2005年から2008年。当初は、ウィリアムスと藤川がセットアッパーで、久保田がクローザーという役割だったが、後半は藤川が最後を締めるようになった。
この間、2007年に久保田が記録したシーズン90試合登板は歴代最多、2005年の藤川の80試合登板は歴代2位の記録。また、2007年の藤川の46セーブは歴代2位。JFKは歴史に残る活躍を見せた。
「JFK」に比べるとややマニアックだが、こちらはソフトバンクで結成されたリリーバーのユニットだ。「S」は攝津正、「B」はブライアン・ファルケンボーグ、「M」は馬原孝浩、「48」は甲藤啓介(背番号48)というメンバー。結成当初の2009年は「SBM」だけだったが、2010年に背番号48の甲藤が加わり、某アイドルを模したようなネーミングに落ち着いた。
この2010年は、攝津が71試合、甲藤が65試合、ファルケンボーグが60試合、馬原が53試合と、まさに4投手がフル回転でブルペンを支え、見事リーグ優勝を果たしている。
阪神時代の野村克也監督が2001年に組んだ走れる7選手のユニットが「F1セブン」だ。メンバーは、赤星憲広、藤本敦士、上坂太一郎、高波文一、平下晃司、松田匡司、沖原佳典(のちに田中秀太も加え「F1エイト」にバージョンアップするもこちらは浸透せず)。走塁に対する意識を高め、さらにチーム内の競争をうながす意味も込められたアイデアだったが、その結果、2000年は53個だったチーム盗塁数が、2001年には78個にアップ。いまやネタ的な存在としてF1セブンを記憶しているファンも多いだろうが、一定の成果は挙げていたのだった。
球史に残るユニットといえば、このコンビを挙げないわけにはいかない。「O」=王貞治(元巨人)と「N」=長嶋茂雄(元巨人)の「ON」だ。王は投手として早稲田実で甲子園優勝、長嶋も東京六大学(立教大)のスター選手で、学生時代から注目された存在。両者とも巨人に入団し、中軸としてV9に貢献するなど、記録にも記憶にも残る球界の看板選手として大活躍した。また2000年には、ダイエー(現ソフトバンク)を率いる王と、巨人の指揮を執る長嶋が、監督としてON対決を実現し、大きな話題となった。このときは、4勝2敗で長嶋巨人が日本一に輝いている。
文=藤山剣(ふじやま・けん)