和田一浩(中日)がついに2000本安打を成し遂げた。6月19日生まれの和田は、今日ちょうど43歳を迎えたところ。42歳11カ月での2000本到達は、自軍を率いる谷繁元信選手兼任監督の42歳5カ月を更新する最年長での記録達成となった。
順調であれば昨シーズン中にも達成間違いなし、と言われていたが、あと15本と迫った8月に右手に死球を受けて骨折。この戦線離脱により、“最年長記録”という泊がついたものの、当たりどころを間違えれば、前田智徳(元広島)のようにそのまま引退に追い込まれる可能性もあった。パフォーマンスに影響がなく、そして大記録に到達したことで、当ててしまったバリントン(当時広島/現オリックス)も胸をなでおろしているところだろう。
和田のように復帰できれば幸いだが、野球は常に危険と隣り合わせだ。死球しかり、本塁でのクロスプレーしかり……。先日、2軍の試合では、マウンドに上がっていた西村健太朗(巨人)の頭部に打球が直撃し、頭から血を流しながら緊急搬送されたこともあった。結果としては、西村に大きなケガはなく、5月30日に実戦復帰したものの、グラウンドでは何が起こるかわからない。
全力でプレーするがゆえに事故が起こってしまうのもプロ野球の宿命。これまで日本プロ野球の試合中に起きてしまった事故を振り返ってみたい。
試合中におけるケガで最も恐ろしいのが頭部死球によるケガだ。手や足でさえ骨折の危険性が高いのに、140キロ超のスピードで硬球が頭に当たれば、死に直結する事故が発生しかねない。
1970年には田淵幸一(元阪神ほか)が左こめかみに死球を受け、昏倒。耳からおびただしい量の血が流れる、という非常に痛々しい事故が起きている。後日あらためて聞くと、死球を受ける前後の記憶を失くしていたという。
左側頭葉の脳挫傷、左耳鼓膜一部損傷などで全治3カ月の大ケガを負った田淵だが、1975年に本塁打王に輝くなどプロ野球を代表する打者に成長した。それでも、左耳の難聴や方向感覚の乱れが後遺症として残り、後年の田淵を苦しめることとなった。
この事故をきっかけに日本プロ野球では耳当て付きヘルメット義務化の動きが高まり、今日では全ての選手に義務付けられることになった。
1979年にチャーリー・マニエル(元近鉄ほか)が受けた顔面死球も壮絶だった。顎を複雑骨折する大ケガを負ったマニエルは2カ月後に復帰。その際には、アメリカンフットボールの選手のようなフェイスガード付きヘルメットで顎を完全防御して打席に入った。限られた視界のハンディを乗り越え、その年の本塁打王とMVPに輝いた。
試合中の事故において、重症化しやすいのが守備での交錯。お互いが打球を懸命に追っているがゆえに不意打ちの状況となり、大ケガに発展するケースが極めて高いのだ。
1988年に吉村禎章(元巨人)が負った大ケガはその典型だ。左翼手の吉村が捕球体勢に入ったところに、ボールを追いかける中堅手・栄村忠広が激突。これにより、吉村は左ヒザの靭帯を4本中3本断裂、神経まで損傷する大ケガに。その後、2度の手術を含む、1年2カ月の壮絶なリハビリ生活を余儀なくされた。当時の主治医は「交通事故レベル」といった。今もなお、その悲惨さを如実に表す一言として語り継がれている。
2014年3月30日の阪神の西岡剛と福留孝介の惨事は記憶に新しい。二塁手・西岡が内野と外野の間に飛んだフライを追いかけたところ、右翼手の福留と激突。西岡は宙を舞って頭から地面に落下し、鼻骨骨折、胸部打撲、左肩鎖関節脱臼、左右第一肋骨骨折と、こちらもまさに「交通事故レベル」の大ケガとなった。
当初は全治不明とまで報じられた西岡だったが、6月末に復帰。しかし、背中の激痛などの後遺症にも苦しめられ、暗いシーズンになってしまった。
1つのアウトを取るべく打球に喰らいつく守備は野球の醍醐味といえる。しかし、一歩間違えばこちらも危険な事故につながる。
1977年、川崎球場で起きた佐野仙好(元阪神)によるフェンス衝突は悲惨極まる。阪神が1点リードして迎えた9回裏。1死一塁の状況で左翼手・佐野のもとに大飛球が飛んだ。佐野は全力で打球を追い、捕球したものの同時にコンクリートむき出しのフェンスに頭から激突。周囲には「グシャ」という音が響き、佐野は血の泡を吹きながらけいれん、頭蓋骨陥没骨折という重症を負ってしまった。この事故を機にプロで使用する全球場のフェンスにラバーを張ることが義務付けられた。
2006年には千葉マリンスタジアム(現QVCマリンフィールド)で二塁手・平野恵一(オリックス)が風に流されたファウルフライを追って、落下地点に飛び込んだ。見事にアウトしたものの、飛び込んだ勢いそのままにフェンスへ激突。ボールこそ落とさなかったが、胸部軟骨損傷、右腰肉離れ、手首捻挫、右股関節捻挫の重症を負った。
このような大ケガと隣り合わせでも打球を追ってしまうのがプロの習性だ。2000年代の阪神を引っ張った赤星憲広が33歳の若さで引退したのも、度重なるダイビングキャッチによる頸椎椎間板ヘルニアの悪化が原因だった。