暗黒時代に入ってしまった中日が地元の甲子園スターを5位指名。高校通算49本塁打の強打も魅力の右腕は、持ち前のガッツに加え、クレバーな投球を手に入れた。
この3年間、愛知県の高校球界は藤嶋を中心に回っていた。
入学直後から大舞台を託され、期待に応えた。1年夏の愛知大会では、その年のセンバツ4強・豊川との一戦を任され見事に勝利。決勝でも序盤から140キロを出し、球の威力で詰まらせた。「終盤になり体にキレが出て、カーブもキレてきた」と、1年生とは思えぬ堂々としたマウンドさばきで完投。甲子園でも白星をつかみ、「バンビ」(1977年夏に東邦が甲子園準優勝した際の主戦・坂本佳一氏の愛称)と同じ1年生エースとしてたちまち全国区になった。
この時、藤嶋本人は試合後のインタビューなどで「(自身として)最初の甲子園出場」という表現をしていた。無意識ながらも“その先”を見据えていたのだろう。実際に、二度目、三度目の甲子園出場を実現させる。
3年春のセンバツでは、モデルチェンジをして登場した。「ただがむしゃらに投げているだけだった」(藤嶋)1年夏に比べ、投球がクレバーになった。ナックルカーブやスライダー、カットボールなど緩急も自在に駆使。冬からブルペンで外角低めに徹底して投げ込み、制球力も上がった。初陣の関東一戦では9回途中までを被安打1の無失点、11奪三振でまとめている。
3年夏も、やはり藤嶋が戦国愛知を制した。大会終盤に右ヒジに疲労が出たが、それでもコースに投げ分ける投球で勝ち抜き、準決勝までは無失点で通した。決勝では、愛工大名電がお家芸のバント戦法を仕掛けてきた。7回までに計28打席回ったうち、打者がその打席の中で1球以上バント関連の仕草(実際にバントをした場合も含む)をしたのが23打席を数えた。
敵将の策士・倉野光生監督は「バントでナックルカーブやストレートの球筋を見る。それが中盤や後半にヒットを生むはず」と後半勝負に賭け、7回表には無死満塁の好機も作ったが、そこから3者連続で倒れ、試合を通じては結局2得点のみ。藤嶋は「予想以上にバントが多かったけれど、イヤだというより、失敗や見逃しも多くてむしろラッキーだった」と一切動じず、相手の一枚上をいった。
甲子園ではヒジの状態が悪く、背番号1の身としては不本意に終わったが、その分4番打者として大爆発。初戦の北陸戦では、単打が出ればサイクル安打達成となる打席で二塁打を放ち“サイクル超え”を披露。また2回戦の八戸学院光星戦では、チームが7点差を大逆転。9回裏には東邦アルプスのみならず、球場の至るところのファンがタオルを回す応援スタイルで、窮地に立たされたナインを後押しした。勝敗を超えた「夢のよう」(藤嶋)な出来事も経験し、高校生活を終えた。
1年夏の鮮烈デビュー後も常に進化を続けてきたのは、本人の向上心はもちろん、OBの木下達生コーチ(元日本ハムほか)の存在も大きい。その指導を受け、より投手らしくなった。
「コントロールをつけるために、ボールを離す位置や腕の振り方ばかりに気をとられていましたが、木下コーチから『腕ではなく右足への意識が大切だ』と教わりました。右足が早く折れすぎると、体が早く前へ移動してしまい、腕の振りが体についてこられず球が高めに抜けてしまう」など金言を授かった。“投手・藤嶋”を確立させてきた。
藤嶋は中学時代から「ジュニアオールジャパン」(ボーイズ日本選抜)に選ばれるなど逸材だった。本人はクラブチームで「とにかく走らされた」思い出が圧倒的。「練習の最後に坂ダッシュがあり、さらにその後に集団走。長い時は何周走ったかわからなくなるほどでした。バティング練習でも、最初に打った後、ピッチャー陣はみんなが打ち終わるまでひたすら外野ポール間を走らされていました」と苦笑するが、ここで体力が培われた。進路は、兄がかつて東邦野球部に所属していたため、弟も自然と「TOHO」に憧れていた。
東邦・森田泰弘監督は、藤嶋の入学前から大きな期待を寄せていた。藤嶋がまだ中学3年生だったその年、東邦は上位打者5人の高校通算本塁打数の合計にちなんだ通称「150発打線」で優勝候補筆頭だった。すでにその時から、「来年、イースト三河(現・東三河ボーイズ)からいい子が入ってくるんですよ」と闘将は藤嶋を心待ちにしていたほどだ。その年は甲子園出場は叶わなかったが、翌春、いよいよ藤嶋が東邦の門をくぐり、待望の甲子園と相成った。
藤嶋は間違いなく“星”をもっている。低迷する地元球団・中日をきっと変えてくれるはずだ。
(※本稿は2016年11月発売『野球太郎No.021 2016ドラフト総決算&2017大展望号』に掲載された「28選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・尾関雄一朗氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)