バントをしない2番打者。過去にはカズ山本(当時ダイエー)や小笠原道大(当時日本ハム)、ペドロ・バルデス(当時ダイエー)など超攻撃型2番打者が注目を集めたこともあったが、近年は西武の栗山巧くらいで、確かに“職人型”の2番が目立っていた。
そこに川端の大ブレイクによって、再び湧いた2番打者最強論。DeNAではアレックス・ラミレス新監督が梶谷隆幸2番構想を明らかにしており、阪神でも鳥谷敬を2番打者に起用するのではないかという見方もある。
2016年は“2番打者”がひとつのキーワードになりそうだ。
しかし、一般的なイメージである「2番打者=小技・小兵」というイメージはどこから生まれたのだろうか…?
そんな疑問から、プロ野球創成期の2番打者を調べてみた。
最初に当たってみたのは、日本プロ野球最初の公式戦である1936年春季リーグ戦。東京巨人軍はアメリカ遠征のため参加できず、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の6球団による短期リーグ戦が開催された。
この大会は順位を付けず、興行化のテストを兼ねた、いわゆる花試合であったが、一際輝いたのが大阪タイガースの2番打者・藤井勇だった。
旧制鳥取第一中では4番打者として3度甲子園に出場している藤井は、その打棒を遺憾なく発揮。5月4日の東京セネタース戦でプロ野球公式戦第1号ホームラン(ランニングHR)を放つと、甲子園ラウンド5試合で19打数10安打1本塁打、打率.526を挙げ、非公式ながら最初の大会で首位打者と本塁打王の2冠、加えて最多安打の選手になった。
藤井は公式に順位が決まる1936年秋のシーズンも打率.320、リーグ最多の40安打、30得点、50塁打を叩きだし、チームは巨人との優勝決定戦に進出。松木謙治郎、景浦將などの主軸が不調の中、阪神の輝かしい歴史の幕を下した2番打者だった。
1936年秋のシーズン、打率.376をマークし、公式の初代首位打者となった中根之(名古屋軍)も25試合中17試合が2番打者での出場。111打席でバントは3個。こちらも積極的に打っていくタイプの2番打者だった。
このシーズン、リーグ全体で見てもバントの数は198試合で127個、1試合平均0.64個。2015年のプロ野球全体は1916試合で1375個、1試合平均0.72個。微々たる差にも見えるが、創成期の戦術では下位打線のバントが多く、2番打者は打っていくスタイルが多かった。
ちなみに2リーグ制の幕開けとなる1950年は全1946試合でバントはなんとたったの640個。巨人で主に1番を打った萩原寛(呉新亨)と西鉄の9番打者・長谷川善三がそれぞれリーグ最多の15犠打を記録しているものの、2番打者に突出した数字は見られなかった。
今年は特に増加しそうな強打の2番打者。新しい価値観・戦術という印象を受けがちだが、プロ野球の歴史をヒモ解くと意外にもルネッサンス的な動きなのかも知れない。
文=落合初春(おちあい・もとはる)