高校野球界の名物監督を紹介する本企画。今回は智辯和歌山を3度の全国制覇に導いた高嶋仁監督(現・名誉監督)にスポットライトを当てたい。
2018年夏、ひとつの歴史が幕を閉じた。歴代1位、甲子園通算68勝の大記録を打ち立てた高嶋仁監督(智辯和歌山)の勇退が決まったのだ。
高嶋監督は甲子園の“顔”だった。代名詞になったのは「仁王立ち」。ベンチの最前線で腰に手を置き(春は腕組み)、じっと試合を見守る姿は平成高校野球の名物だった。
「不動心」の体現。それが高嶋監督の仁王立ちだ。2018年春は見事にチームがそれを表現した。準々決勝では最大5点差をひっくり返し、創成館に勝利。準決勝でも東海大相模を相手に5点差からの大逆転を決めた。
ただ立っているだけではない。笑うこともときには厳しい表情になることもある。「あそこに立っていると怒鳴るわけにはいかん」。ベンチの奥にいるとつい熱くなってしまう。自分を律し、選手をノビノビとプレーさせるために「仁王立ち」を選んだという。そんな人間味も高嶋監督の魅力だった。
高嶋仁監督の凄みはチーム作りに詰まっている。智辯和歌山といえば、全国屈指の強豪だが、部員は1学年10人(現在は12人)。それも和歌山県内や大阪南部の近場の選手で構成されている。
3ケタの部員数に迫る強豪校も多いなか、高嶋監督は少数精鋭を貫き通した。
理由も合理的だ。一つは人数が多いと目が届かない、つまり練習しているようで遊んでいる選手が出てしまうから。もう一つはなるべくベンチに入れてあげたいという思いからだという。大学進学を視野に入れると、ベンチ内なのかベンチ外なのかは「評価点」に大きく関わるのだ。
しかし、少数精鋭はマイナスではない。高嶋監督は勝利とうまく噛み合わせた。有望な選手がいれば、1年生の春からガンガンと試合で起用する。今夏のメンバーでいえば、黒川史陽も叩き上げられた一人だ。
東妻純平も1年秋から捕手で出場しているが、中学時代は遊撃手だった。高嶋監督が才能を見抜いてコンバートの指示を出したそうだが、普通の学校ならば2年秋に行うようなコンバートだったのではないだろうか。
継投策も冴えた。1996年春、エースの高塚信幸(元近鉄)が疲労で肩を故障したことを機に「エースと心中」の考えを捨てていた。
1学年わずか10人。普段は練習試合もある。一人の投手に依存することの危険性をより早く感じられる環境にあった。
継投の妙がクローズアップされる場面が多かったが、パンクしない量の投手を育成してきたから継投のタクトを振ることができる。
選手数が1学年10人から12人に増えたのは、投手を確保するため。現3年生の代から採用しており、時代に対して先手を打っている。
トップを走り続けた高嶋仁監督。後任の中谷仁監督(元阪神ほか)も甲子園で早くも勝利を挙げており、後進の育成も十分に整った状況での勇退だった。これからは甲子園のご意見番として、多くの秘話を披露しそうな雰囲気もある。
文=落合初春(おちあい・もとはる)