今年の8月15日で、太平洋戦争が終結してちょうど70年となる。プロ野球は誕生して81年となるが、先の大戦では多くのプロ野球選手が戦地へ送られ、その若い命を落とした。
戦死した選手たちの犠牲の上に、今日の日本プロ野球の繁栄があることを我々は忘れてはならない。そんな心半ばにして戦火に散った選手を紹介したい。
この沢村のライバルだったのが、景浦將だった。松山商から立教大に進み、1936年に大阪タイガースへ入団。豪快なバッティングで4番打者として君臨。さらに投手としても活躍し、重いストレートを武器に1936年秋のシーズンは6勝0敗、防御率0.79で最高勝率、最優秀防御率のタイトルを獲得した。現在、大谷翔平(日本ハム)が「二刀流」として活躍しているが、野口二郎(元東京セネタースほか)らとともに、その元祖といってもいい存在だった。
1937年春は投げては11勝、打っては47打点で打点王を獲得。秋には首位打者となり、大阪タイガース初優勝の原動力となる。翌1938年春に31打点で2度目の打点王となる。1940年に徴兵されたのち、1943年に復帰するが、沢村同様にこの年が景浦にとっても最後のシーズンとなった。
そして、沢村の戦死から5カ月後の1945年5月、フィリピン・ルソン島にて29歳で戦死する。
1984年、プロ野球50周年の記念切手が3枚発売された。そのうちの2枚は「投手」「打者」と名前は出てなかったが、「投手」は沢村の投球フォーム、「打者」は景浦の豪快な打撃フォームがデザインされていた。
沢村、景浦に比べると知名度は低いが、石丸は特攻隊で戦死した唯一のプロ野球選手だった。
石丸は佐賀商から兄・藤吉の後を追って1941年に名古屋軍に入団。学生時代は投手だったが、プロ1年目は内野手としてプレーする。翌1942年には投手に復帰。初登板となった4月1日の朝日軍戦では2安打完封でプロ初勝利を挙げた。結果として、この年は17勝をマークすると、翌1943年は20勝12敗、防御率1.15というさらなる好成績を残した。10月12日の大和戦ではノーヒットノーランを達成し、これが戦前最後のノーヒットノーランとなった。
投手として成長が期待されていたが、1942年10月の学徒出陣によって、日本大夜間部に在籍していた石丸は徴兵される。海軍に入隊した石丸は1945年、神風特別攻撃隊に志願。5月11日、鹿児島・鹿屋基地から出撃し、そのまま帰ってくることはなかった。まだ22歳の若さだった。
出撃前日の10日には、同僚を相手にキャッチボールを行い、最後の10球は全てストライクを投じた。
石丸の生涯は、後に牛島秀彦の小説「消えた春」や、同作を原作とした映画「人間の翼 最後のキャッチボール」で描かれている。
上記の沢村、景浦、石丸のほかにも「タコ足」と呼ばれる一塁守備でファンを魅了した中河美芳(元イーグルス)、巨人の正捕手だった吉原正喜、「酒仙投手」こと西村幸生(元大阪タイガース)など。戦没したプロ野球選手たちは東京ドーム敷地内の「鎮魂の碑」に名を連ねている。戦後70年経った現在のプロ野球を、先人たちはどのような思いで見守っているのだろうか。