門田博光といえば、王貞治(元・巨人)、野村克也(元・南海ほか)に続く、NPB歴代3位の通算567本塁打を放った男、として知られている。170センチの小さな体にも関わらずホームランを量産した鍵は、やはり「フルスイング」にあった。
同じパ・リーグのスラッガー、秋山幸二(当時・西武)は門田のスイングをこう評した。
《門田さんはいつもフルスイングだった。飛ばすことも、結果もすごいけど、練習から工夫していた。打撃投手の距離を短くして速い球を打っていた。それも重いバットを振った。練習からフルスイングだったから、大きくない体であそこまで飛ばせたんだと思う》(『感涙!ナニワ野球伝説』より)
また、門田が「永遠のライバル」と認めた山田久志(元・阪急)は、こんなコメントを残している。
《本物のプロのバッターだった。(中略)今だったら金本(知憲、元・阪神)、小笠原(道大、元・日本ハムほか)らのフルスイングだろうが、もう一つ、迫力が違った。いい勝負ができた》(『感涙!ナニワ野球伝説』より)
球史に残るスラッガーとエースが認めたフルスイング。それこそが、門田を門田たらしめたのだ。
門田といえば31歳のときに負ったアキレス腱断裂が、その後の野球人生に与えた影響は大きい。それまでは俊足・好守の外野手でもあった門田だったが、ケガ以降、DHがほぼ主戦場となった。ただ、ケガをしたから打撃一本になり、大成したわけではない。若い時分から、頭の中は打撃のことだけだった。
《走るや、投げるは、どうでもいい。スイングを速うするのに重点を置いた。ゲロを吐きながら振った》(『感涙!ナニワ野球伝説』より、門田本人の談)
森にはまだ、キャッチャーを諦めて欲しくはない。だが、一方で感じるのは「走るや、投げるは、どうでもいい」という覚悟がなければ、打者としても大成できないのか? ということだ。むしろ、そこまで腹を括って打撃一本で勝負できた心の強さこそが、門田の偉大さの秘密だったのではないだろうか。
門田博光の偉業を振り返るとき、欠かすことができないのは40歳以降の活躍ぶり。40歳で迎えた1988年、打率.311、44本塁打、125打点で本塁打王と打点王の二冠を獲得。さらにMVPにも輝いている。40歳での44本塁打は日本初の快挙であり、史上最年長でのMVP選出でもあった。
この1988年は、プロ野球において激動の年だった。
阪神の掛布雅之、西武の東尾修、阪急の山田久志、福本豊といった球界スターたちが相次いで現役引退を発表。さらには巨人の王貞治監督も退任。加えて、阪急、南海という歴史ある2球団が身売りに至った年だった。
プロ野球界における分水嶺ともいえる年。だからこそ、古き時代を知る「不惑のアーティスト」が活躍することに意義があった。門田が球史に残る記録を打ち立てたからこそ、その記録とともに「南海」という球団名が歴史に刻まれたのだ。
翌年以降、関西に残りたいと、身売り先のダイエーではなく、阪急から変わったオリックスに籍をおいた門田は1999年、41歳で33本塁打、93打点。さらに1990年には42歳で31本塁打、91打点を記録。42歳での30本以上は、MLBも含めても世界初の偉業だった。今季、42歳にしてMLB3000安打を達成したイチローに負けず劣らずの活躍ぶりだったわけだ。
そんな門田は、フルスイングを目指す若者にこんなエールも送っている。
《ろくでもない解説者が、あんなに強く振らなくても、軽く打てばホームランになるんですけど、と言うやろ。大間違いや。軽く振って本塁打にするにはどれだけ時間がかかるか知らんやつが言うこと。(中略)ワシは朝のコケッコから、とにかく時間を忘れてバットを振った。普通のやつは出来んから、おれは『変わり者』と言われるんやろな。そこまでやらな、こんな小さい体で500本も打てんじゃろ》(『感涙!ナニワ野球伝説』より)
そして、こうも続ける。
《打たれれば、打ち返す。こてんぱんにやられても、根気強く。思うように咲かない花もある。でも、ひたすら努力を続ければ、きっとその花は開く》
文=オグマナオト