首都大学リーグベストナインに輝いた変則右腕を阪神が指名。同期の豪腕投手と切磋琢磨した好青年は心と体を鍛えあげ、指名漏れの悔しさを晴らした。
「気持ちをぶらさずに4年間をやりきって夢を叶えてくれたので、僕も嬉しいです」
そう言って、帝京大・唐澤良一監督は目を細めた。
高校時代は激戦区・神奈川で、公立校を春夏連続で県16強に導いた。そして、念願だったプロ入りを目指し、プロ志望届を提出するも結果は無念の指名漏れ。心を新たにして、帝京大へ進学した。
「当初はプロがダメなら就職して働くことも考えていたのですが、ドラフト後まで待っていただいた唐澤監督に感謝です」と話す青柳。周囲への感謝の言葉をところどころで口にする好青年だ。
そんな青柳の成長に欠かせなかったのが、同期の右腕・西村天裕の存在だ。西村は最速154キロのストレートで押していく、いわば剛腕型の投手。変則型である青柳とは違うタイプの投手だが、西村もまた公立の和歌山商出身で、近畿大会への出場経験こそあるが、甲子園には手が届かなかった。
そんな2人は入学時から親交を深めるとともに互いを高め合った。八王子キャンパス内にある医科学センター(通称トレセン/ジム施設がありトレーナーが常駐している)には、授業の合間や後に2人で足繁く通った。
また唐澤監督は、競争心をあおるため青柳に「17」、西村に「19」の背番号を与え、エースナンバーである「18」を争わせた。
結果として4年時に「18」を付けたのは西村だったが、それで下を向く青柳ではなかった。
「周りのチームからは“帝京大のエースは西村”と言われてきましたが、僕は負けているつもりはなかったです。何よりそこで負けを認めていたら自分の成長はないので、結果を残すだけだと思っていました」と、優しい笑顔が真顔になり、青柳の言葉に一段と熱がこもった。
そしてその言葉を裏づけるかのように、今春と今秋は青柳が2回戦で勝ち星を重ねて、西村を上回る9勝をマーク。最後の秋には初めてベストナインにも輝いた。
西村の存在とともに青柳の成長を支えたのが、抜群のトレーニング環境だ。
帝京大では一昨年から寮が新しくなり、そこには広々としたウェートルームと室内練習場が完備され、いつでもトレーニングができるようになった。また美味しく、メニューが豊富な食堂(バイキング形式!)では、バランスよく多くの食事を摂取。前述のトレセンでのトレーニングも合わせた抜群の環境で、青柳の体重は65キロから79キロにまで増え、球の威力やスタミナ向上にも役立つ要因となった。
また、青柳の姿勢もすばらしかったと話すのは、トレセンと野球部で、青柳のトレーニングを指導してきた内田幸一コンディショニングコーチだ。
「青柳は良い意味で頻繁に要求をしてくる子でした。右ヒジのクリーニング手術をした昨年は“秋には間に合うようにお願いします”と言われ、今春は少し痛みもあり本調子ではなかったのですが、“春のリーグが終わるまで持たせてください”と言われました。そして秋は“プロにならせてください”と。もちろん要求に応えなきゃと大変ではありましたが、楽しかったですよ」と笑顔で振り返った。
指名漏れした高校時代との違いについて、青柳は真っ先にメンタル面の充実を挙げた。
高校時代はどうしてもひとりよがりの投球になってしまうことも多かったが、「短気だったのが普通になりました」と冗談っぽく笑う。また内田コーチも「地道な努力を続けることで、体はもちろん心が成長したなと強く感じます。オトナになりました」と話し、「特にお母さんをとても大事にする姿勢は尊敬しますね」と語った。
今回のドラフトでは下位指名が有力視されていたこともあり、「プロ志望届を出さずに社会人に行った方が安定を得られる」と周囲から助言を受けたこともあった。
だが女手ひとつで青柳を育ててきた母・利香さんが「野球やっている人の中で、ほんのわずかの人しか入れないなかに入ったのなら、挑戦してみなさい」と背中を押してくれた。
入団後の目標について青柳は「一日でも早く1軍に上がること。その次に1軍定着を目指したいです」と謙虚に話した。
指名漏れを味わったあのときとは、まったく違う心と体でプロという大海原に船を出す。
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高木遊氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)