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「僕を全国区にしてくれてありがとう」甲子園九十年物語〈1984−1995〉

 甲子園90年の歴史を偉人たちの歩みとともに振り返るこの企画。今回は誕生からちょうど60年を迎え、開場以来の「甲子」の年となった1984(昭和59)年からの12年間をプレイバックする。開場60周年を記念して電光掲示板方式に新調された甲子園のスコアボードは、どんな選手名を表示し、見守ってきたのだろうか?

◎12人の偉人で振り返る
〜甲子園九十年物語〈1984−1995〉


<PL王朝、甲子園に君臨す>

 1980年代の高校野球はPL学園高を中心に回っていた。1983(昭和58)年に脅威の一年生コンビとして全国を制した「KKコンビ」、清原和博(元西武ほか)と桑田真澄(元巨人ほか)を擁したPL学園高は、2人の在学中(1983夏〜85年夏)に「5季連続甲子園出場」「甲子園通算23勝3敗」「全国制覇2回、準優勝2回」という驚異的な強さを見せ、全国にその名を轟かせた。

 さらに1987(昭和62)年には立浪和義(元中日)、片岡篤史(元日本ハムほか)、野村弘(元横浜)、橋本清(元巨人ほか)らを擁し、KKコンビもなし得なかった甲子園春夏連覇を達成。

 いまだに「高校野球史上最強チームはKKコンビ時代のPLか、春夏連覇を達成したPLか」と議論になるほど、高校野球ファンの記憶に深く刻みつけるインパクトを残した。

<阪神タイガース21年ぶりのV〜その1>

 「甲子園は清原のためにあるのかっ!?」という名実況とともにPL学園高が全国制覇を達成した1985(昭和60)年、もうひとつの甲子園球場の主もまた優勝の美酒を味わった。1964(昭和39)年以来優勝から遠ざかっていた阪神タイガースが21年ぶりに優勝したのだ。

 勝因はなんといってもランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布のクリーンナップを中心にした強力打線だ。特に4月17日の試合で実現した「バックスクリーン3連発」はいまでも語り種。そして、リーグ優勝の勢いのまま日本シリーズで西武を破り、球団初の日本一を達成した。

<阪神タイガース21年ぶりV〜その2>

 阪神フィーバーに全国の虎党が歓喜した1985(昭和60)年、タイガースにとって大切な球団マスコット・トラッキーが誕生した。前年に新調された3代目スコアボードのオーロラビジョンに流すアニメーションキャラクターとしてデビューすると、1987(昭和62)年には着ぐるみも登場し、公募によってトラッキーと命名。背番号は生まれ年であり、阪神にとって栄光の年である「1985」になった。

 ただ、阪神が強かったのはこの年のみ。翌1986(昭和61)年こそバースの2年連続三冠王の活躍もあって3位に踏みとどまるも、1987(昭和62)年は最下位に転落。以降、Bクラスが指定席となってしまう。さらに1988(昭和63)年には優勝の立役者だったバースが解雇、掛布も引退を表明。暗黒時代といってもおかしくないほど、暗い話題ばかりが先行してしまった。

 そんな中、久しぶりに明るい話題に満ちたのが1992(平成4)年。亀山努と新庄剛志による、いわゆる「亀新フィーバー」が巻き起こった。前年(1991年)オフにラッキーゾーンが撤去されて広くなった甲子園の外野を、脚力に自慢のある二人の若手が縦横無尽に駆け回った。その勢いがチームにも乗り移り、6年ぶりにシーズン終盤まで優勝争いに加わったのだ。

 結局、この年はシーズン2位で終えた阪神。しかし、これ以降、再び最下位が指定席の暗黒時代を送ることになる。

<甲子園に「ゴジラ」現る!>

 TUBEが毎年の晩夏、甲子園大会終了後に野外ライブを行うのが恒例となった1991(平成3)年の12月、甲子園球場からラッキーゾーンが撤去されたのは上述したとおり。これによって、特に高校野球では本塁打が出にくくなるだろう、と予想された。

 そんな世間の声などなかったかのような打棒を見せつけたのが星稜高の松井秀喜だった。1992(平成4)年春のセンバツでは開幕戦で2打席連続本塁打を記録。次の試合でも本塁打を放ち、センバツ大会タイ記録となる一大会3本塁打を達成した。



 そして迎えた夏の大会、2回戦の明徳義塾高で「5打席連続敬遠」という“事件”が起きた。松井はバットを一度も振ることなく伝説の存在となった。


【pick up!】
立浪和義、片岡篤史、野村弘、橋本清、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布、トラッキー、亀山努、新庄剛志、TUBE、松井秀喜



◎Man of the period〈1984−1995〉
立浪和義

 1987(昭和62)年に春夏連覇を達成したPL学園高で主将を務めたのが立浪和義だった。後にプロで活躍する選手が4人(1学年下の宮本慎也も入れれば5人)もいた代ではあるが、当初は試合でも負けることが多く、周囲の評価は高くなかった。それでも、この代が強くなったのはチームワークが良かったためといわれている。夏の大会で優勝した際、キャプテン・立浪は次のようにコメントを残している。「夏はベンチに入れなかった4人の3年生も一緒に戦ってくれました。僕らだけの力じゃありません。本当にみんなに感謝しています」。優れた個が集まるだけでも勝てないのが甲子園の難しさであり、魅力であるのは間違いない。

▲PL学園のことも話していただいた立浪和義インタビューはこちらです

◎Man of the period〈1984−1995〉
掛布雅之

 本塁打王3回、打点王1回という輝かしい成績を残し、阪神に21年ぶりに優勝をもたらした「ミスタータイガース」こと掛布雅之。しかし、優勝した1985(昭和60)年が掛布にとっては最後の輝きとなった。翌年以降、度重なるケガで出場機会が限られ、ケガをかばって打撃フォームも崩すという悪循環に。そして1987(昭和62)年、33歳という若さで引退の道を選んでしまう。「このまま野球を続けるということは、タイガースにも迷惑をかけると思いますし、ファンの皆様にもご迷惑がかかるんじゃないかと思いまして」という言葉を残し、ユニフォームを脱いだ。

◎Man of the period〈1984−1995〉
松井秀喜

 過去、幾人もの大打者たちがバットを振って振って振りまくって、その地位を築き上げてきた。だが、バットを振らずに全国区になった打者は松井秀喜だけだろう。1992(平成4)年夏の甲子園、星稜高vs明徳義塾高における「5打席連続敬遠」はそれほどの“事件”だった。敬遠の指示を出した明徳義塾高の馬淵史郎監督は「高校球児の中に1人だけプロが混じっていた」と、その実力がいかに頭抜けたモノだったかを評した。後年、松井は敬遠した相手投手である河野和洋氏とテレビ番組の企画で再会し、「僕を全国区にしてくれてありがとう」と語っている。


■ライター・プロフィール
オグマナオト/1977年生まれ、福島県出身。広告会社勤務の後、フリーライターに転身。「エキレビ!」では野球関連本やスポーツ漫画の書評などスポーツネタを中心に執筆中。『木田優夫のプロ野球選手迷鑑』(新紀元社)では構成を、『漫画・うんちくプロ野球』(メディアファクトリー新書)では監修とコラム執筆を担当している。ツイッター/@oguman1977

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