レジェンドから新世代まで高校野球の名物監督を紹介する本企画。今回は取手二、常総学院で全国制覇3回を達成した木内幸男氏を紹介したい。
2011年に監督を勇退。早いものでもう8年が経つ。1980年代から一時代を築いた名将・木内幸男氏だが、若い高校野球ファンはもしかしたら知らないかもしれない。
木内監督の代名詞といえば、なんといっても「木内マジック」だ。勝負どころで見せる采配はズバ抜けていた。
初めて脚光を浴びたのは、取手二時代、1984年夏の甲子園決勝だろう。相手は桑田真澄(元巨人ほか)、清原和博(元西武ほか)を擁するPL学園。4対3でリードして9回裏を迎えたが、ソロホームランで同点に追いつかれ、なおも死球で無死一塁。完全にPLの押せ押せムードのなか、クリーンアップを迎えてしまった。
ここで木内監督はマウンド上のエース・石田文樹をライトに回し、左の柏葉勝己をマウンドに送り込んだ。柏葉が3番の左打者・鈴木英之をバント失敗のキャッチャーゴロに打ち取ると、石田をマウンドに戻し、清原を三振、桑田をサードゴロ。サヨナラのピンチを切り抜けると、10回表に4点を奪い、初の全国制覇を達成した。
「一度、外野の空気を吸わせて」というのは、今では汎用性の高い戦術だが、「ワンポイントリリーフ」というのは当時では珍しかった。混乱する石田の心情を巧みにとらえた名采配だった。
「木内マジック」のもう一つのハイライトは、2003年夏の決勝、ダルビッシュ有(カブス)を擁する東北との決戦だろう。
歴代屈指の好投手であるダルビッシュを前に木内監督は「3点勝負」と踏んでいた。しかし、2回裏、常総学院は2点を許してしまう。3回裏にもいきなり二塁打を打たれて無死二塁。ここで木内監督はピッチャーをエースの磯部洋輝から飯島秀明にスイッチした。
飯島は前年まで2年生ながらエースを張り、甲子園でも投げているが、故障に泣いていた。茨城大会でもわずか1回1/3しか投げられなかったが、甲子園で積極的に起用。まさに「秘密兵器」だった。
これがズバリと的中する。東北は当然送りバントを狙うが、バント失敗。2ストライクからはヒッティングに切り替えるが、レフトフライ。飯島は、東北の後続打者も打ち取り、3点目を与えなかった。
そして、4回表、無死一塁の場面で木内監督は勝負に打って出る。バントなしの強攻策だ。相手が好投手なら、まずは1点ずつ奪うのがセオリーだが、木内監督はここが逆転のチャンスと見ていた。それは前日にダルビッシュが「完投する」と発言していたからだった。
完投意欲があれば、4回はまだ“抜いてくる”可能性が高い。スイッチが入った常総学院はこの回、3点を奪って逆転。ダルビッシュ対策で並べた左打者が見事に機能した。超高校級のダルビッシュといえども「一言」が命取りになってしまったのだ。勝負の機微を見抜く目はやはり凄まじい。
木内監督は一連の木内マジックを「当たっちゃった! ガハハ!」と豪快に笑う。茨城弁で饒舌に語る姿も甲子園の名物だった。
「選手たちが頑張ってくれました」というのが、お決まりだったが、あまりに老獪な采配は「勘」では片づけられない。あまり多くを教えず、自主性を重んじるスタイルは「放任主義」ともいわれるが、一人ひとりの個性を見抜き、ピンポイントでチームを動かしてきた。
確固たる“こだわり”ではなく、試合巧者として実績を築いた数少ない名将。その勇姿と名采配は今後も語り継がれるだろう。
文=落合初春(おちあい・もとはる)