1位指名で抽選を2度外したソフトバンクだったが、地元・九州出身のスケールの大きな右腕を1位指名した。大いなる伸びしろを残す好素材の魅力とは。
前回、「雲雀鳴く春先の球場にて」
「全体メニューは、何とかこなせたものの、1年目はレベルの違いを痛感しました」
加治屋が、入社した2010年のJR九州は絶頂期を迎えていた。09年に泥臭い粘りの野球で日本選手権を制し、10年には、都市対抗、日本選手権の2大大会で準優勝を遂げていた。「投のJR九州」を支えていたのが、右サイドの濱野雅慎と左軟投派の米藤太一で、公式戦で他の投手が登板する余地はほとんどゼロに等しかった。
これからという時期の2年目。東日本大震災が発生し、公式戦の試合数も限られた。そして、両エースの壁も厚いままだった。しかし、加治屋は都市対抗野球の予選マウンドに上がり、「社会人野球のレベル」をつかみかけていた。
いよいよ、高卒選手のドラフト解禁となる社会人3年目を迎える1月の練習中、「突発事故」が発生した。ダッシュしても痛くないのに、ジョグで足に痛みを感じた。診察結果は「シンスプリント(脛骨過労性骨膜炎)」。治療には安静にするしかない。ここから長いトンネルが始まった。
「最初は、すぐ治るものだと思っていました。でも、なかなか治らず、焦りに変わっていきました」
つらかったのだろう。伏し目がちに、一語一語と絞り出すように思いを吐露していった。
「体幹、腹筋、背筋とできることをやりました。あと、チームの裏方に徹するよう心掛けました」
12年5月のJABA九州大会。データ係として、北九州市民球場のバックネット裏にいる加治屋を見かけた。近くに座ると、対戦しているチームの投手の球速や球種を丁寧に教えてくれた。
故障とは知らず、「ベンチ入りして、バンバン投げないといけない時期なのに」と心配していた矢先、ある関係者がスタンド中段の通路から、わざわざ加治屋にところまで来て、声を掛けていった。
「早く、治せよ」
合点がいった。「ケガしているんだ。早く治さないとね」。私も続けた。当時のことを改めて聞いてみた。
「いろんな方に気にかけてもらっているんだなって。すごく励みになりました。チームメートも、雰囲気よく接してくれたし、何とかメンタル面でも乗り越えることができました」
加治屋の表情には、安堵の笑みが戻ってきた。
8月になり、ようやく走り始めた。トンネルを抜け出す、具体的な成果もあった。
「練習再開後、ストレートの球質が変わりました。『扇風機ボール』から、『動くボール』になりました」
どのトレーニングの効果なの?と聞いたら、「それが、よくわからないんです」と返ってきた。根っこを張った辛抱が、実を結んだのだろう。
12年11月10日の日本選手権2回戦のホンダ戦。8強を決める試合が、2大大会の初登板となった。相手打者の名前に臆することなく、「中野(滋樹)さんのミットを目がけて、腕を振ることだけを考えました」。
ストライク先行の投球で、先発投手をリリーフした5回から5イニング2安打無失点で、復活を果たした。
技術面が向上しようとも、まだまだ、メンタル面は不足していた。
入社4年目となる13年。
チームは4年連続16回目の都市対抗出場を決めるも、加治屋が先発した1回戦のヤマハ戦に敗れた。
「2ストライクに追い込んでから、打たれました。自分が甘かったです」
私生活や練習を見直した。ポール間走で、最後の一本を流していたのを、ラインを決めて全力で走り抜く。できることをやった。
メンタル面を克服することで、9月13日の日本選手権九州予選の新日鐵住金大分クラブ戦では最高の投球を見せる。
詰めの甘さは消え、自信を持ってマウンドに登った。
「真っすぐと、フォーク、横スラとすべてよかったです。テンポもよく、低めに決まりました」
そして、ドラフト1位指名。
ドラフト翌日、スポーツ各紙のソフトバンクのドラフト結果評価は、高くなかった。
「外れ、外れの1位ですけど、1位です。他の1位とスタートラインは同じです」
目が輝いた。
入団までの課題は制球力かなと聞くと、「急によくなることは、ないと思います。合同自主トレまで、やれることをやります」。
鈍行列車から、急停車も経験した今までの野球人生。辛抱強く、レールという「根っこ」を敷き続けた結果のドラフト1位だった。
「九州新幹線」ばりのストレートと高速フォークを引っさげて、初観戦した小学生時代から憧れていた地元球団・ソフトバンクホークスの「ななつ星」を目指す。
加治屋蓮号。発車、オーライ。
(※本稿は2013年11月発売『野球太郎No.007 2013ドラフト総決算&2014大展望号』に掲載された「30選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・濱中隆志氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)