多和田真三郎の名前が一躍、全国に広がったのは2012年の明治神宮大会だろう。
1年生だった多和田は東北地区代表決定戦で3連投。全25イニングを無失点に抑え、創部48年目の初出場に導いた。そして、明治神宮大会の初戦で先発。大きなステップ幅で踏み込み、重心の低い独特のフォームから、浮き上がるような球筋のストレートを見せつけ、国際武道大を相手に21年ぶりとなるノーヒットノーランを成し遂げたのだ。
「あの試合は、7回くらいに言われて気づきました。特別な感じはなく、普通に投げただけです。今となっては、もう、過去のことですね。でも、ノーヒットノーランで注目されるようになって、その分、周りに見られているなという感じもあった。頑張らないといけないという気持ちになれたので、いい経験だったと思います」
こうした記録を達成すると、その後、ハードルが高くなり、見えない期待でつぶれることもある。また、周囲のお節介があったりもする。実際、「いろんな人の話を聞いて、こんがらがったりした」こともあり、2年時は思うような結果を出すことはできなかった。多和田が自身で納得いく感覚をつかんだのは3年春だ。
多和田が3年春のリーグ戦。富士大は2戦目の先発投手を毎回、変えていたが、1戦目は多和田が任されていた。リーグ戦終盤の青森大との試合でも当然のことながら1戦目に先発した。6連勝でV街道を走っていたのだが、強風の影響もあり、3-4で敗戦。負けられない富士大は、翌日の2戦目も多和田を先発させた。
「連投で身体も疲れていたので、力を抜きながら投げました。そうしたら、相手打線がハマって、こうすれば抑えられるというピッチングができたんです。それまでは抑えることに必死な感じでした」
1戦目の勝負にとっては不運な強風だったが、多和田にとって、実は幸運の強風だったのだと、今は思える。
多和田が1、2年時は投手コーチとして、3年からは監督として指導する豊田圭史監督は「3年春に変化球でカウントを取れるようになったのが大きい。相手打者を見て投げられるようになった」と話す。投球術を身につけた多和田は「どの球種でもストライクが取れた。理想のピッチングができた」と、4年春のリーグ戦をベストに挙げる。最高の状態で全国舞台へ――、行くはずだった。
5月23日の八戸学院大戦。先発した多和田は5安打1失点に抑え、味方打線が9回に2点を奪って逆転勝ち。3季連続優勝を飾った。喜ばしい日だったが、この試合後、多和田は豊田監督に打ち明ける。
「脇腹から肩甲骨にかけて、痛みが上がってきています」
試合中に感じた痛み。これが長いケガとの戦いの始まりだった。
リーグ戦後はノースローで調整し、大学選手権前には法政大とのオープン戦に1イニングだけ登板した。しかし、大学選手権本番ではマウンドに立てず、チームは初戦敗退。右肩痛は炎症からきており、ゴムチューブや軽めの重りを使った肩周りのトレーニングや下半身強化に励む日々を過ごした。
キャッチボールを再開したのは9月中旬。フォロースルーの時に痛みを感じていたため、「最初のフォロースルーは怖かった」と振り返る。恐怖心に打ち勝ち、1球を投じると、「大丈夫だ」と感じた。10月までに「4、5割の力で届く距離」だという60メートルくらいまで距離は伸びたが、全力投球ができるまでは回復しなかった。
ドラフト候補生にとって、試合でのパフォーマンスが“就職活動”である。痛みを感じた試合が大学での公式戦ラスト登板となり、頭の片隅には、投げられない悔しさとドラフトへの焦りがあった。そんな多和田の気持ちとは裏腹に、球質、能力、完成度といった評価が下がることはなかった。
球持ちがよく、打者の手元で伸びるストレートを生んでいるのは、大きなステップ幅だ。スパイクが28センチで7足半。「(ステップ幅が)自分を越しているピッチャーを見たことがない」という。この広いステップ幅やフォームは誰かに教わったわけではなく、自然と身についたもののようだ。「小さい頃の写真を見ても変わっていない」と多和田本人が言えば、母・もと子さんも「フォームは少年野球の頃から変わっていないですね。そのまま、身体だけ大きくなった感じ」と証言する。
多和田には兄が2人おり、父・真次さんは少年野球チームのコーチをしていたが、真次さんにもフォームを教わることはなかったという。もと子さんによれば、「いつも自然にボールが転がっている状態」だった多和田家。野球があるのが当たり前の家庭で育ち、普段から仕事を終えた真次さんに「キャッチボールをしよう」とせがんだ。そんな環境で、自分で身につけた投げ方だ。
多和田のこれまでの野球人生で、大きな選択が中部商への進学だ。「中学のときはもちろん、無名だったので、適当な高校に行って、高校で野球は終わろうと思っていました」
それが、当時の中部商・宮里豊コーチから誘われて進学を決意する。高校では「つきっきりで指導してくれた」という宮里コーチのお陰でカーブを習得した。
3年夏は沖縄大会決勝まで進んだ。3回戦の浦添商戦では延長13回、207球を投げぬくと、翌日の準々決勝・豊見城戦は延長12回を完投した。準決勝では、前年に春夏連覇を成し遂げた興南に7対6で勝利。これも投げきった。糸満との決勝も先発したが、スクイズと失策で2点を失った。
「1-2の1アウト満塁で、自分がバッターで終わりました。打ったら甲子園だったんですけど。サードゴロ、ゲッツーです」
聖地には届かなかった苦い思い出かと思いきや、すでに“ネタ”のようだ。「沖縄に帰ったら、いつも誰のせいで負けたのかという話しになります。3人くらいいて。自分か、エラーしたやつか、あと三塁コーチャーのやつか。自分の前のバッターがレフト前に打ったとき、レフトがエラーしたんですけど、ランナーを止めたので」
甲子園まであと一歩の夏を経て、プロ志望届を提出した。しかし、指名はなかった。
「それはそうだろうなと思いました。(指名が)なくても仕方ないなって。プロの世界に行くには、すべてにおいて足りなかったと思います。指名されなくても当然かなと。なので、ショックもそんなにありませんでした」
成長を誓い、南国・沖縄から雪国・岩手の富士大に進学した。
1年秋の鮮烈な全国デビューから投手として成長を続けてきた。最も、多和田を成長させた要因は、1年中、土の上で技術練習ができる沖縄では少なかったランニングメニューだろう。
「下半身が強くなり、ブレなくなった」と成果を実感。制球力が高まったと感じている。それでも、「大学レベルのコントロール」と言い切る。「大学生のなかではコントロールに自信はあります。でも、プロに行ったらまだまだだと思います。大学生のストライクゾーンの広さのままではやっていけないんじゃないかと。ボール1個、2個の出し入れが、プロの世界では大切になると思います」
プロでの目標を「毎年10勝」と定めた。「1位で取ってもらったので、それくらいは活躍しないとダメだと思う」という思いから出た目標だ。
「ここぞ、で投げて勝つのがエースだと思っています。だから、どんなに調子が悪くても、勝つということを目標にしてきました。1、2年の頃はコロッと負けることがあったのですが、3年生あたりから、そういうピッチングが少しずつできてきたと思います」
3年春のリーグ戦で、多和田は力を抜いて投げる感覚をつかんだと前述した。それは黒星を喫した翌日に連投したことでつかんだ感覚だが、あの敗戦以降、多和田はリーグ戦で負けなかった。青森大、八戸学院大をはじめ、力が拮抗している北東北大学リーグで4年春まで13連勝したのだ。
「ケガが治れば、プロでやっていける自信はあります」
嫌というほど、走ってきた。場数も多く踏んできた。4年前、指名漏れに終わったときに「仕方ない」と諦めた姿はどこにもない。今は「成長できた場所」と感謝する、岩手・花巻で得た自信でみなぎっている。
(取材・文=高橋昌江)
この記事は『野球太郎 No.016 2015ドラフト総決算&2016大展望号』の「野球太郎ストーリーズ」よりダイジェストでお届けしております。
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ISBN:9784331803196 |