カープの助っ人第1号は、1953年シーズン途中で加入した銭村健四(ぜにむら・けんし)だった。健四は「アメリカ日系人野球の祖」といわれる銭村健一郎を父に持ち、前年の1952年に全米学生選抜の一員として来日。非凡な実力を発揮したことから、当時の石本秀一監督が獲得を要望していた。
ただ、まだ戦後のにおいが残る時代。選手への給料遅配が発生するなど、チームは慢性的な経済面の不安を抱えていた。そこで、チームを強力にバックアップしたのが地元政財界を中心とした後援会だ。
先に小鶴誠らスター選手のために1000万円もの募金を集め獲得にこぎ着けた後援会は、健四の獲得にも400万円を集め万全の受け入れ態勢を整えた。
結果、健四だけでなく兄の健三(日本語のあまり話せない健四のために来日)と、健一郎が育てた投手・光吉勉も同時に来日。健四、健三、光吉が記念すべきカープ最初の外国人選手となった。健三と光吉は数カ月から2年で帰国したが、健四は4年間在籍。オールスターゲームに出場するほどの実績を残した。
1975年の初優勝時はホプキンスとシェーン、1979、1980年の2連覇時にはライトル、ギャレット、デュプリーと、強力な助っ人の存在がチームの栄光をもたらした。
また、1990年代からは「カープアカデミー」で育ったドミニカンも活躍。1995年に15勝を挙げ、背番号106も話題になったチェコ、のちにメジャーで2000安打をマークするソリアーノなど、様々な面でインパクトを残した。
2009年のマツダスタジアム開設後では、投手だとバリントン、野手だとエルドレッドの存在が光る。
バリントンは全米ドラフト1位の実績を持つ右腕。微妙に動く速球と正確にコースを突くスライダーでゴロの山を築いた。2011年からの4年間で通算41勝を記録し、カープの外国人投手では最も勝った投手だ。
余談だが、筆者が「グラウンドボーラー」というワードを知ったのはバリントンのおかげである。