さまざまな苦労や不遇に対して、諦めることなく努力し、それを乗り越えてきた野球人たちに迫る「プロ野球逆境克服列伝〜逆境を乗り越えた男たち」。
第2回目は、現在セ・リーグの首位争いを演じている広島東洋カープを取り上げよう。かつては「お荷物球団」とまで呼ばれた広島。一度、黄金時代を築くも、2000年代は「5位力」と名付けられるなど、再びBクラスが定位置に。そして、昨年に引き続き、快進撃を繰り広げる広島はまさに、「逆境を乗り越えた男たち」と呼ぶにふさわしいチームだ!
1949(昭和24)年
◎選手集めにもひと苦労……
広島がその産声をあげたのは、今から65年前のこと。1949(昭和24)年、日本は戦後の荒廃から立ち直る途上で、経済復興と同時に、プロ野球の人気も再び盛り返していた。そんな機運のなか、プロ野球は2リーグ制に移行。原爆被害からの復興を目指した野球団体「広島野球倶楽部」が誕生し、12月15日には広島カープとして、セントラル・リーグに加盟した。
しかし、ここからが苦難の始まりだった。親会社を持たない広島は、何といってもお金がなかった。2リーグ制で球団が増え、他球団が資金力にモノを言わせて選手の引き抜き合戦を繰り返す中、広島は選手獲得しようにも資金がない。同時期に加盟した大洋ホエールズは、選手の獲得資金に6000万円を用意したが、広島はわずか800万円しか用意できなかったという。当時の石本秀一監督は自ら選手集めに奔走した。
その甲斐あって、翌1950(昭和25)年のセ・リーグ開幕戦に間に合った広島。同時期に加盟した西日本パイレーツと初の公式戦を行い、5-6で敗れたものの、記念すべき第一歩を踏み出すことができたのだった。
1952(昭和27)年
◎球団整理の標的に?
広島の初年度の成績は、優勝した松竹ロビンスと59ゲーム差をつけられ、ブッチぎりの最下位(8位)に終わった。両リーグ通じて広島だけが勝率3割を下回るという、悲惨な成績だった。
しかし、戦力補強をしようにも資金がない。さらに選手へ払う給料や、遠征費も工面できない状況となり、一度は役員会で球団解散が決定! だが、石本監督の説得もあって、何とか解散は免れたという。
ところが、今度は下関に本拠地があった大洋との合併案が持ち上がった。なんとか広島に球団を残そうとする地元ファンが立ち上がり、球団を存続させるための資金を募ったあの有名な「樽募金」が行われたのは、この頃の話だ。
何とか迎えることができた1952(昭和27)年の開幕前、今度はセ・リーグ代表会議で「シーズン勝率3割を切った球団は処罰する」という旨の発表がなされた。先に消滅した西日本パイレーツの影響で、7球団制になったセ・リーグの日程を組みやすくするために、下位球団を整理するという意味合いもあったという。
当然、広島は整理対象の最有力候補だった。しかし、広島はこの逆境を乗り越えた。この年のシーズン勝利数は37勝で、勝率は.316で終え、なんとか処罰を免れたのだった。
1968(昭和43)年
◎黄金時代到来へ
低迷が続いていた広島に、明るい光が注いだのは1968(昭和43)年。東洋工業(現マツダ)社長が広島の筆頭株主として、オーナーに就任。球団名は広島東洋カープとなり、資金面でようやく落ち着きをみせるようになった。
さらに1975(昭和50)年、球団初の外国人監督となるジョー・ルーツがやってきた。帽子やヘルメットの色を紺から赤に変更し、チームは戦う集団にガラリと変身。ルーツ監督はシーズン途中で辞任するという逆境もありつつ(コーチだった古葉竹識が監督に就任)、中日と阪神と激しい優勝争いを演じたこの年、ついに球団創立25年目にして、初優勝を飾ったのだった。
以降、優勝に貢献した山本浩二や衣笠祥雄らが長くチームを牽引し、1979(昭和54)年と1980(昭和55)年にはセ・リーグ連覇どころか連続日本一に輝いた。この頃から広島は「赤ヘル軍団」と呼ばれ、苦難の道を乗り越えてようやく「赤ヘル黄金時代」が到来したのだった。