第4回 さらば松井秀喜〜メジャー編〜
「私、松井秀喜は、本日をもちまして、20年間に及びましたプロ野球人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援してくださったファンの皆様、そして報道関係の皆様、感謝の気持ちを伝えたく思い、このような記者会見を開かせていただきました」
12月28日午後5時のニューヨーク、日本時間では12月29日の朝7時から始まった松井秀喜選手の引退会見。起床とともにTwitterのタイムラインやfacebookでそのことを知った方も多かったのではないでしょうか?
年末の話題をさらっていった「松井秀喜引退」に注目し、前編では日本での活躍を振り返ったこのコーナー。後編ではメジャー10年間の歩みを引退会見でのコメントとともに、1年ずつ140字でプレイバック。Twitterやfacebookでぜひご活用ください。
《ヤンキース時代前期('03〜'05)……昇り調子の3年間》
■'03年(163試合/16本塁打/106点/打率.287):開幕戦に5番レフトで先発出場、初打席・初安打・初打点を記録。本拠地開幕戦では満塁の場面でメジャー初本塁打を放つ衝撃の地元デビューを飾る。ポストシーズンでは4番も任されるなど、1年目からチームの主軸として活躍した。
■'04年(162試合/31本塁打/108点/打率.298):前年16本塁打に終わった反省を踏まえ、オフに大幅な筋肉増量を決行。結果、メジャーキャリアハイとなる31本塁打を記録した。また、7月15日には「日米通算350本塁打」と「日米通算1500試合連続出場」を同時に達成した。
■'05年(162試合/23本塁打/116点/打率.305):本塁打は前年を下回ったものの、打点・打率でメジャーキャリアハイを記録。チームの地区優勝に貢献した。しかしポストシーズンでは絶不調。ディビジョンシリーズ最終戦では「8残塁」という屈辱的な結果で、戦犯としての辛酸を味わった。
「本当に悩み、移籍するということに対して苦しい思いもしましたが、あこがれのヤンキースのユニホームにそでを通して、七年間もプレーできたということは、僕にとっては本当に最高の出来事であったし、本当に最高な日々でした」
長嶋茂雄監督から「ジョー・ディマジオのような選手を目指せ」といわれ、知らず知らずと憧れを抱くこととなったニューヨーク・ヤンキース。渡米後は日本でのような長距離打者としてではなく、まさにディマジオのようなの勝負強いクラッチヒッターに変貌を遂げ、チームになくてはならない存在となった。その証拠が、メジャー挑戦から3年連続で達成した「打点100」であるだろう。一方で2年目には31本塁打を記録するなど適応能力の高さも見せつけた。
《ヤンキース時代後期('06〜'09)……ケガとの戦い、そして栄光の時》
■'06年(51試合/8本塁打/29打点/打率.302):WBCを辞退して臨んだシーズンだったが春先から故障が相次ぎ、5月11日、スライディングキャッチの際に左手首を骨折。巨人時代から続いていた連続試合出場記録が「1768」で途切れた。9月12日にDHで124日ぶりに先発復帰した。
■'07年(143試合/25本塁打/103打点/打率.285):5月6日、本拠地で「日米通算2000本安打」を達成。2季ぶりの2桁本塁打・100打点を記録するものの、終盤は右膝の故障に苦しみ、シーズン終了後に内視鏡手術を受けた。また、信頼を寄せていた
ジョー・トーリ監督が退任した。
■'08年(93試合/9本塁打/45打点/打率..294):開幕前の3月26日に結婚を発表。序盤は首位打者争いを演じていたが、オフに手術をした右膝をかばった影響か、古傷の左膝痛を再発。ホーム最終戦を最後にシーズン終え、左膝の手術を決行。チームも14年連続となるプレーオフ進出を逃した。
■'09年(142試合/28本塁打/90打点/打率.274):膝の影響でDHでの登録となる。好不調の波が激しいシーズンを送るが、ワールドシリーズ6試合では13打数8安打3本塁打8打点、打打率.615を記録し、9年ぶりの世界一に貢献。日本人初となるワールドシリーズMVPに選出された。
「ヤンキースの一員として初めてヤンキー・スタジアムでプレーした日のこと、そしてヤンキースの選手として、最後にヤンキー・スタジアムでプレーしたことは、おそらく一生忘れることなく、僕の心の中にずっとあり続けと思います」
「最後にヤンキースタジアムでプレーしたこと」とは、'08年のホーム最終戦を意味する。この年で取り壊すことになっていた旧ヤンキー・スタジアム最後の試合への出場にこだわり、球団からの手術指令を固辞し続けた松井選手。「たら・れば」の話になってしまうが、もしこの時、できるだけ早く手術に踏み切っていれば、その後の膝の影響も違っていたのではないか……と考えてしまうのは野暮だろうか?
一方で09年には見事復活を果たし、日本人選手初、フルタイムの指名打者としてもメジャー初となるMVPを受賞。引退会見では妻への感謝も口にした。
「彼女が一番のファンでいてくれたと思いますし、支えてくれました。ケガをしてから結婚したので心配をかける時間が多かった気がします。普段は球場には来ませんが、2009年のワールドシリーズは全試合球場で観ていました。唯一の恩返しですね」
まさに松井選手にとって「勝利の女神」であったことがわかるエピソードだ。
《エンゼルス・アスレチックス・レイズ時代……放浪の旅、そして引退へ》
■'10年(145試合/21本塁打/84打点/打率.274):ヤンキースとの契約満了に伴い、FA。エンゼルスに移籍する。開幕戦で本塁打を記録するなど序盤は打撃好調も、5月以降は好不調の波が激しく、出場機会も徐々に減少。シーズン終了後の11月2日、1年契約が満了しFAとなった。
■'11年(141試合/12本塁打/72打点/打率..251):アスレチックスと1年契約。4月3日に「日米通算2500本安打」、7月20日に「日米通算500本塁打」と節目の記録を達成するものの、シーズン全体を通して打撃は不調。シーズン終了後FA。移籍先が決まらないまま越年となる。
■'12年(34試合/2本塁打/7打点/打率..147):4月30日にレイズとマイナー契約。5月29日にメジャー昇格を果たす。背番号は35番。昇格当日の試合で本塁打を放つも、以降快音は聞こえず、7月24日に戦力外通告。12月28日(日本時間29日)、ニューヨークにて引退会見を行った。
「エンゼルス、アスレチックス、そして今年のレイズと、1年ずつでしたが、プレーする機会をいただき、なかなか力になりきれない部分もありましたが、素晴らしいチームでプレーできたことは僕の人生にとって、非常に大きな意味のあることだったと思います」
最愛のニューヨークを離れ、松井選手は新たな安住の地を求める旅へ。しかしそれは文字通り険しい道となる。膝の痛みに苦しみ、結果が出せないもどかしさの中で、それでも「命がけのプレー」を続ける松井選手の姿がそこにはあった。
「僕が10年前にメジャーリーグに挑戦するときに、命がけでプレーし、メジャーという場で、力を発揮するという気持ちで、この10年間やってきましたが、さきほどもいいましたが、結果が出なくなったことで、その命がけのプレーが、ここで一つの終わりを迎えたんじゃないかと思っています」
日本で、そしてメジャーでも大きな爪痕を残した「ゴジラ」は、こうしてバットを置くこととなった。
「(引退を)ハッキリ決めてから時間がたっていませんので、今後につきましては、まだあまり決めておりませんが、少しここでゆっくりしながら、今後のことは考えていきたいと思っています。本当に20年間、ファンの皆様、暖かい声援をくださり、ありがとうございました」
(了)
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