今シーズン、ロッテ・清田育宏が5月から6月にかけて23試合連続安打を記録。7月14日の試合でストップしてしまったが、西武・秋山翔吾は31試合連続安打まで記録を伸ばした。
この両選手が連続試合安打を継続している際、頻繁に出てきたのは、日本記録は33試合連続安打で、その記録を樹立したのは?橋慶彦(元広島ほか)だということだ。?橋慶彦といえば、その豊富な練習量で球史に名を刻む選手にまで駆け上がり、そのルックスと甘いマスクで、多くの女性たちを魅了した。その大記録を打ち立てた?橋慶彦の足跡を、改めて振り返ってみよう。
?橋は高校3年夏、東京・城西高校のエースとして甲子園に出場。甲子園で見せた本塁への走塁が広島の名スカウト・木庭教の目に留まり1974年のドラフト3位で広島へ入団する。
翌1975年、プロ入りと同時に投手から野手へ転向した?橋だったが、プロの世界の高いレベルを実感して「すぐクビになるかもしれない」と自信を無くす。そこで救いの手を差し伸べたのが、この年の途中で監督に就任する古葉竹識だった。古葉は「慶彦、プロは足だけでもメシが食えるぞ」と、プロで生き残るための方向性を伝授する。
また、その俊足を生かすため、本来右打者だった?橋はスイッチヒッターに挑戦。左打席での打撃をマスターするために、「猛練習」と形容されるほどにバットを振り込んだ。後に古葉は「あの子ほど練習する選手を見たことがない」と振り返っている。
その後、メキメキと頭角を現し始めた?橋を、古葉は遊撃手に抜擢する。コーチ陣が反対の意見を唱えるなか、古葉は?橋に「お前が出てくるか、オレがユニフォームを脱ぐかだぞ」と声を掛け、その闘争本能に火を点けさせた。
1978年、背番号が40から2へと変わった?橋は、開幕から「1番・遊撃手」で出場し続けてレギュラーに定着。110試合に出場して打率.302と結果を残す。
そして1979年は、?橋にとって大きなシーズンとなった。
6月6日、ナゴヤ球場で行われた中日戦でヒットを放つと、そこから毎試合ヒットを重ねていく。連続試合安打が20を超え、30を超え……。そして7月29日の大洋戦で、1971年に長池徳二(当時阪急)が記録した32試合連続安打の日本記録に並んだ。
新記録が懸かった試合は7月31日、広島市民球場での巨人戦。1回裏、1番打者として右打席に立つ?橋に球場のすべての視線が集まった。巨人の先発・新浦寿夫が投じた2球目をレフト前に運び、ついに日本記録を更新。球場中が歓喜に包まれた。大記録を打ち立てた?橋だったが直後の2回、守備中に負傷し途中退場してしまった。8月8日の阪神戦で復帰したものの、ノーヒットに終わり、連続安打記録は33でストップした。
33試合連続安打をマークしたこの年、?橋は55盗塁をマークして盗塁王を獲得。日本シリーズでも打率.444の活躍で、シリーズMVPを受賞して、広島初の日本一に大きく貢献した。さらに翌年にも盗塁王となり、チームも2年連続日本一に。
1983年に打撃フォームを改良し、本塁打数が急増。前年までプロ通算28本塁打だった?橋が24本塁打を記録。いまとなって振り返ると、両打ちで初めての「トリプルスリー」を達成できる可能性もあった。長きにわたって、赤ヘル打線のトップバッターとして君臨した。
1989年にロッテへトレードされてチームを離れる。それ以降、ずっとチームとは疎遠状態(広島市民球場閉鎖前に行われたOBオールスターゲームには参加)だが、四半世紀が経っても、?橋本人の広島に対する強い想い、そして、広島での?橋慶彦人気は衰えていない。