今季先発した6試合はすべて自責点2以下。先発投手として申し分ない好投を続けながら、5月9日現在、まだ1勝しか挙げられていない。ネット野球用語でいうところの「ムエンゴ」の状態だ。
田中将大(ヤンキース)の話である。
振り返れば、田中将大はこれまで「援護」に恵まれてきた印象が強かった。楽天に入団して間もない頃、野村克也監督(当時)が「マー君、神の子、ふしぎな子」と詠んだのは、田中登板時に打線がやたらと打つから、というのが理由のひとつだった。
2013年に成し遂げた伝説の「24連勝」。あの年、田中の「援護率」は6.22と12球団トップだった。
もちろん、味方が点を取ってくれるかどうかは、田中本人としてはいかんともしがたい問題ではある。だが、どんな状況でもチームに勝利をもたらす者こそが「エース」と呼ばれるはずだ。
そして、援護に恵まれてきたように思える田中の野球人生でも、これまでに何度もそんな「いかんともしがたい状況」が立ちはだかった。それらを覆してきたからこそ、今があるのだ。
たとえば中学3年時。なぜ、野球どころといえる兵庫県出身の田中が、当時はまだ「野球不毛の地」ともされた北海道の高校を進路として選んだのか?
それは、当初入学予定の高校で、監督交代劇があったからだった。中学生・田中少年にとっては、まさにいかんともしがたい大人の事情だ。そんな田中と縁で結ばれたのが駒大苫小牧だった。
そして、田中が入学して間もなくの2004年夏、駒大苫小牧は甲子園で「北海道勢初優勝」を達成。その快挙をアルプススタンドで目撃したからこそ、「俺もあの場に立ってやる」というモチベーションにつながったことは想像に難くない。
果たして1年後の2005年夏、田中将大は甲子園のマウンドに立ち、駒大苫小牧の二連覇に貢献したのだ。
たとえば2006年3月。開幕を控えたセンバツ大会は、駒大苫小牧にとって「夏春連覇」のかかった大一番。そして、当時既に「世代最強エース」と呼ばれた田中将大にとって、それは実現可能性の高い未来だった。
ところが、卒業を控えた3年生部員の不祥事によって駒大苫小牧は出場辞退に追い込まれてしまう。「投げたくても投げられない」という、いかんともしがたい状況によって、田中はこの時期から夏が終わるまで、フォームを大きく崩してしまった。
そんな状況でも、田中は負けなかった。調子を崩しても、フォームを崩しても、チームを「夏の甲子園決勝戦」という大舞台にまで導いたのだ。
結果的に、決勝戦は延長引き分け再試合になり、その再試合でチームも敗れ、駒大苫小牧の「夏三連覇」はならなかった。だが、チームが敗れた決勝戦でも、黒星が付いたのは田中ではなかった。どんな状況でも負けない男……まさに、「エースの神髄」をこのとき体で覚えた、といえるのではないだろうか。
たとえばドラフト指名時。この年の「超目玉」だった田中将大をクジで引き当てたのは、新規参入して2年連続で“ぶっちぎり最下位”の楽天だった。
ドラフトでの抽選。野球人にとって、これほど“いかんともしがたい”ものはない。「12球団OK」を示唆していた田中本人にしてみても、本当は意中の球団があったかもしれない。
だが、田中はドラフト会議後の応対で歴史の浅い球団である楽天に決まったことをどう思うか問われ、次のように返していた。
「本当の意味での挑戦者になれる気がします」
その「挑戦者」としての前向きな姿勢があったからこそ、楽天時代の異質ともいえる高い援護率を導きだしたのではないだろうか。どんな状況においても、自分自身にとってのプラス材料を見つける男、それが田中将大なのだ。
5月9日現在、ヤンキースはアメリカン・リーグ東地区の最下位だ。「名門ヤンキース」という肩書きで見失いがちになるが、今、ヤンキースはチーム再建真っただなか。むしろ今こそ、「挑戦者」としての姿勢が求められているわけだ。
優勝とは無縁、といわれていた北海道を進学先に選び、「北の王者」と呼ばれるようになった高校時代。
万年最下位だった球団を、わずか数年で日本一に導いた楽天時代。
田中将大にとって、「挑戦者」としての立場が実は一番似合うのかもしれない。そんな立場から、どうやって王者に登りつめていくのか? 名門ヤンキース復活の鍵は、「挑戦者」田中将大の肩にかかっているのは間違いない。
文=オグマナオト(おぐま・なおと)