8月16日、楽天・斎藤隆が今シーズン限りでの現役引退を表明した。今年で45歳となったベテラン右腕も、今季は4月に登板した2試合のみの出場となっていた。プロ24年間で残した数字は、日米通算で112勝96敗139セーブ。横浜、アメリカ、そして生まれ育った地元・仙台と渡り歩いた斎藤隆のプロ野球人生を改めて振り返ってみたい。
東北高校では一塁手だった斎藤だが、東北福祉大時代に投手へ転向。その長身を生かした投球で注目を集め、1991年のドラフト会議では大洋(現横浜DeNA)に、ドラフト1位で指名され入団。この年、東北福祉大からは斎藤だけでなく、金本知憲が広島、浜名千広、作山和英がダイエー(現ソフトバンク)、伊藤隆康が巨人に入団と、5人のプロ野球選手が誕生している。
斎藤は入団2年目から先発ローテーションに入り、先発の一角として頭角を現していく。プロ5年目の1996年には10勝を挙げ、プロ入り初の2ケタ勝利をマーク。206奪三振で、最多奪三振のタイトルを獲得し飛躍の年となった。しかし、翌97年はヒジの故障のため、プロ入り初めて登板なしに終わった。
そして1998年、横浜は38年ぶりのリーグ優勝を果たし、斎藤も13勝5敗1セーブと復活を果たす。
西武との日本シリーズでも第2戦に先発し完封勝利。第5戦では打線の大量援護に助けられ勝利し、シリーズ2勝を挙げ優秀選手賞に選ばれた。続く99年は、キャリアハイとなる14勝と、横浜には絶対に欠かせないピッチャーとなった。
転機となったのは2001年、高校・大学の先輩である佐々木主浩のメジャー移籍以降、不在となっていたクローザーに転向。この年は27セーブ、翌02年も20セーブと結果を残し、この経験が後のメジャーでの活躍につながっていった。03年からは再び先発で登板し続けたが、05年オフにメジャー挑戦のため球団を自由契約となる。
2006年、ドジャースとマイナー契約を交わした斎藤だったが、開幕直後に正クローザーのエリック・ガニエが戦線離脱したためメジャーに昇格。4月は主にセットアッパーでの登板だったが、5月に入るとクローザーを任され、チームの信頼を勝ち取っていく。メジャー1年目は6勝2敗24セーブの好成績を挙げ、高齢でのメジャー挑戦を不安視する当初の予想を払拭した。
翌2007年は、開幕当初からクローザーで活躍。オールスターゲームにも監督推薦で選ばれた。成績も39セーブと前年を上回り、オフにはドジャースとの再契約を勝ち取った。
2008年は右ヒジの故障もあって18セーブに終わると、翌09年には、レッドソックスへ移籍。主にセットアッパーとして同じ日本人投手である岡島秀樹(現・横浜DeNA)とともに、その役を担った。また、この年には日米通算100勝100セーブという、節目の記録を達成している。
その後はブレーブス、ブルワーズと毎年ユニフォームが変わることになるが、常に自分の役割を果たしチームに貢献していった。2011年のブルワーズ時代には、29年ぶりの地区優勝に貢献。プレーオフでは6試合に登板し無失点と40歳を超えても健在ぶりをアピールした。そして、12年のダイヤモンドバックスを最後に、地元・仙台の楽天でのプレーを決断する。メジャー7年間の成績は338試合に登板、21勝15敗84セーブという結果だった。
8年ぶりの日本球界復帰となった2013年、5月6日のオリックス戦で初登板。勝利投手となり日本球界では2768日ぶりの白星を挙げた。以降、主にセットアッパーとして、そして若い投手陣の良きアドバイザー役としてチームに貢献。シーズン途中にはクローザーを任されるなど3勝0敗4セーブの成績を残し、楽天は初のリーグ優勝、日本一に輝いた。昨年7月11日のロッテ戦では、44歳4ヶ月と日本球界最年長セーブを記録していた。
引退会見では「本当に幸せな野球人生を送ることができた」と振り返った斎藤。地元・コボスタ宮城での引退試合も、今後は予想されるだろう。