今から100年前の1915年の夏。第1回全国中等学校優勝野球大会が開催されて、夏の甲子園の歴史がはじまった。当初はわずか10校が参加して行われた大会も、現在では全国49地区から代表校が集まって開催される。
現在の「49代表制」になったのは1979年の第61回大会から。それ以前は5年ごとの記念大会を除いて、甲子園に出場するには各都道府県大会を勝ち抜き、さらにいくつかのブロックにわかれた地方大会を勝ち上がらなければならなかった。
戦前には「外地」と呼んでいた満州、朝鮮、台湾にも、全国大会への参加が認められていた。満州と朝鮮は1921年から、台湾は1923年から参加が認められ、毎年、代表校を甲子園に派遣していた。
1921年の第7回大会に満州代表として初出場したのが大連商だ。大連商は、その大会でいきなり準決勝に進出。さらに1926年の第12回大会では、円城寺満と桜井修が中心となり決勝進出を果たす。惜しくも優勝は逃したが、内地勢からは一目置かれる存在となった。
朝鮮の中で力を発揮していたのは5回甲子園に出場した京城中。最高成績はベスト8だった。
台湾勢では、春夏合わせて最多7回の出場を誇る台北一中と、5回出場の嘉義(かぎ)農林が強豪校。特に嘉義農林は1931年の第17回大会に、初出場ながら決勝戦に進出。決勝戦では、吉田正男擁する中京商に惜しくも敗れて準優勝に終わり、初出場初優勝や「外地」の優勝は成し遂げられなかった。
この嘉義農林の「初出場準優勝」という偉業は、いまでも台湾では伝説として語り継がれている。