【この記事の読みどころ】
・45回を1人で投げ抜いたイケメン投手・太田幸司
・甲子園の鉄則を破って優勝した東海大相模
・金属バット時代到来! 甲子園大会は「打高投低」へ
1968年(昭和43年)
――第50回大会決勝
静岡商|000|000|000|0
興国 |000|010|00×|1
第50回記念大会は、北・南北海道の2校と、全国都府県1代表ずつの全48校が参加。西宮球場を併用した第45回大会の同数だったが、この年は参加校の希望もあり、甲子園球場のみで開催。13日間で47試合を消化するという強行スケジュールであった。
優勝校は、地元大阪の興国(こうこく)が、初出場初優勝の快挙を達成した。決勝戦は、興国の下手投げエース・丸山朗と、静岡の1年生左腕・新浦寿夫の息詰まる投手戦となった。興国は5回、内野安打で出塁した丸山を本塁へ迎え入れ先制。結果、この1点が試合を決める1点となった。
なお、第50回大会を記念して記録映画を制作。監督は市川崑、題名は公募から「青春」に決定した。
1969年(昭和44年)
――第51回大会決勝
■1試合目
松山商|000|000|000|000|000|000|0
三沢 |000|000|000|000|000|000|0
この大会は、史上初の決勝戦引分け再試合が行われた。結果からいうと、18回の出場回数を誇り、3度の優勝経験を持つ松山商が、2年連続2度目の出場を果たした三沢を破り、4度目の全国制覇を果たしたのである。
まずは、松山商・井上明と三沢・太田幸司の壮絶な投げ合いとなった。7回、松山商は2死満塁、三沢は2死一、二塁のチャンスを掴むも、それぞれ無得点。延長に入った15回裏には三沢は無死一、二塁、16回も1死満塁のサヨナラのチャンスを迎えたが、どちらも得点できず、延長18回を終えて0−0、4時間16分の試合は大会規定により、引き分けに終わった。
■再試合
松山商|200|002|000|4
三沢 |100|000|100|2
翌日の再試合は、松山商が連投の太田を攻めて2点を先取。三沢もその裏、1点を返すものの、以降は打線が沈黙。太田は、2回以降も踏ん張ったが、6回には暴投と落球などで2点を与えてしまう。試合は4−2で、松山商が勝利した。
太田は、米軍基地の街・三沢市に生まれ、ロシア人の母と日本人の父をもつハーフ。色白の美少年で、今でいう超イケメン選手であった。この大会では、準々決勝から決勝戦の再試合まで4日連投で、45回を1人で投げ抜いた。大会本部には、投げ続ける太田の姿をみて「これ以上戦わせるのは可哀想だ」といった声も届き、甲子園ギャルのはしりとして、太田を追いかける女性ファンも現れた。
「優勝するには、好投手が必要不可欠」という格言があった甲子園。しかし、この年の優勝校・東海大相模は、その鉄則を破ったチームであった。
バットを短く持って叩きつける打法を徹底して、得点を重ねるスタイル。バントは少なく、スクイズはしなかった。決勝戦のPL学園戦では4回から7回まで毎回得点。投手力というよりは、その打撃力で初優勝を果たしたのだった。
1971年(昭和46年)
――第53回大会決勝
磐城 |000|000|000|0
桐蔭学園|000|000|10×|1
大会史上初となる、東日本勢同士の決勝戦となった。優勝した桐蔭学園は、前年の東海大相模に続いて、神奈川県勢2連覇を達成した。
敗れたものの東北地区代表の磐城の健闘も光った。平均身長167センチ、30校の代表のうち最も低身長のチームながら、次々と強敵を破っていった。特にエース・田村隆寿は165センチ。決勝戦までの全4試合、合計406球を、一人で健気に投げ抜いた。決勝点となった7回裏の失点は、田村が甲子園で許した唯一の失点であった。
1972年(昭和47年)
――第54回大会決勝
津久見|012|000|000|3
柳井 |000|000|010|1
中九州代表の津久見が初優勝。真紅の優勝旗が関門海峡を渡ったのは、1965年に優勝した三池工以来、7年ぶりのことだった。
先制点を奪った津久見は、再三の好守をみせたバックの堅い守りもあり、エース・水江正臣が力投。シュート、カーブを投げ分けて柳井打線に的を絞らせない。柳井は津久見の2倍の10安打を放ちながら、要所を抑えられて敗戦。津久見は大会期間中も猛練習を行い、周囲を驚かせた。
1973年(昭和48年)
――第55回大会決勝
静岡 |000|001|010|2
広島商|200|000|001×|3
第55回記念大会の話題の中心は、作新学院の江川卓であった。高校生離れの快速球は多くの野球ファンを虜にした。本命視されていたものの、この夏は2回戦の銚子商戦、押し出しの四球で敗れた。優勝の行方が混沌としたなか、全国制覇を果たしたのは広島商。
16年ぶり5度目の優勝を勝ち取った決勝戦はドラマチックだった。2点を先取した広島商に対して、静岡は6回、8回に1点ずつを奪って同点に追いつく。9回裏、一死満塁のチャンスを広島商が掴むと、守備固めに入っていた大利裕二が鮮やかなサヨナラスクイズを決めた。このスクイズは、カウント2−2からのスリーバントスクイズで、“広商野球”を象徴する得点シーンだった。
1974年(昭和49年)
――第56回大会決勝
防府商|000|000|000|0
銚子商|000|006|01×|7
この大会から使用許可が下りた金属バットが話題となった。長打数が増加して、大会全33試合で二塁打が17本、三塁打が36本と金属バットが産み出す速い打球が、甲子園球場を駆け巡った。
優勝した銚子商は優勝候補の一角として前評判も高かった。一方の防府商は初出場ながら決勝戦に駒を進めた。序盤は互角の展開だったが、“黒潮打線”と呼ばれる銚子商の強力打線が6回に火を噴いた。2死から篠塚利夫(現和典)らが連打を放ち、一挙、6点を入れて試合を決めたのだった。
1975年(昭和50年)
――第57回大会決勝
新居浜商|010|200|100|4
習志野 |000|040|001×|5
前年から使用するようになった金属バットの影響で、この大会も「打高投低」の大会となった。雨で5日間も順延となり、涼しい夏の大会でもあった。
迎えた決勝戦。まず、新居浜商が習志野のエース・小川淳司から先制点を奪う。習志野は5回、一挙に逆転するも、粘る新居浜商は7回に同点に追いつく。9回裏、2死一、三塁で2年生の下山田清がサヨナラヒットを放ち、習志野がサヨナラ勝ちで栄冠を手にした。ちなみに、習志野は5試合で安打数は67本。チーム打率.390と、驚異の数字を残している。
1976年(昭和51年)
――第58回大会決勝
PL学園|000|300|000|00|3
桜美林 |100|000|200|01×|5
東京勢と大阪勢の決勝戦での対決は、なんと60年ぶり。スター選手がおらずとも、決勝進出を果たした両校は、まさに高校野球らしいチームで、粘り強く勝ちを拾ってきた。
粘り強い終盤の守りが決勝戦を盛り上げた。PL学園は8回、1死二、三塁のピンチで、桜美林のスクイズを見破る好判断。桜美林は7回、9回にエース・松本吉啓が鮮やかな牽制で、二塁走者を刺した。お互い譲らない好試合は、延長11回裏、桜美林の菊池太陽にサヨナラヒットが飛び出し、東京から60年ぶりの優勝チームが誕生した。
1977年(昭和52年)
――第59回大会決勝
東邦 |010|000|000|0|1
東洋大姫路|000|100|000|3×|4
この大会は、「本塁打の大会」といえるだろう。決勝戦まで、満塁弾、決勝弾、サヨナラ弾など数々のホームランが飛び出した。
21本もの本塁打が出たこの大会の締めくくりは、東洋大姫路の主将・安井浩二のサヨナラ本塁打。夏の甲子園史上初の決勝戦サヨナラ本塁打で、劇的な幕切れとなった。相手の東邦は、1試合ごとに力をつけ、1年生・坂本佳一が投げ抜いた。“バンビ坂本”と呼ばれた細腕投手は、「(サヨナラ本塁打を打たれて)なんとなくホッとした」と、味のあるコメントを残したのだった。
★★★次回は第60回〜第69回大会の決勝戦の模様をお伝えします。
(文=編集部)