通算本塁打868本を誇る「世界の王」。早稲田実業時代はセンバツ優勝投手になるなど超高校級選手として活躍。しかし、巨人入団と同時に打者へ転向するも、プロ初打席から26打席ノーヒットが続き「王、王、三振王」というヤジがスタンドから飛んだ。
プロ2年目の1960年にはチーム最多の17本塁打を放つも、周囲の大きな期待にはなかなか応えられない日々が続いた。
そしてプロ4年目の1962年、打撃コーチに荒川博が就任し、王をマンツーマンで指導。今ひとつ抜けきれない現状を打破すべく、一本足打法の習得に取り組んだ。
7月1日の大洋(現・DeNA)戦、王は初めて一本足打法を試合で試みた。初回に右前安打を打つと、3回にはライトスタンドへ本塁打。3安打3打点の活躍を見せる。以降、王は7月だけで10本塁打と打撃開眼。最終的には38本塁打、85打点で二冠王を獲得し、この年から13年連続本塁打王と大打者への道を突き進んでいく。
星稜高時代は甲子園で5打席連続敬遠という伝説を残し、1992年のドラフトで4球団競合のなか、長嶋茂雄監督(当時)がクジを引き当て巨人に入団。ルーキーイヤーの8月下旬からスタメンに定着し11本塁打を放った。
2年目には開幕から3番に座り、FA移籍で巨人に入団した落合博満と3、4番を形成。20本塁打でリーグ優勝、日本一に貢献した。翌1995年には22本塁打で初めてベストナインを受賞する。
プロ4年目の1996年、阪神との開幕戦では初めて「開幕4番」を任される。夏場はチームの好調子とともに一気に上昇し、7月、8月と月間MVPを獲得。中日・山崎武司に1本差で本塁打王のタイトルを奪われるも、38本塁打と飛躍し「メークドラマ」の一翼を担った。
この活躍でリーグMVPとなり、一躍球界を代表する選手へと成長する。翌1997年の本塁打王争いもホージー(ヤクルト)の前に1本差で涙を飲んだが、1998年に42本塁打を放ち、ようやく本塁打王のタイトルを手にした。
大阪桐蔭高では1年夏から甲子園で活躍し、2007年のドラフト1位で日本ハムに入団する。前出の王、松井とは違いプロ1年目は1軍での出場はなく、2軍で汗を流した。
プロ3年目の2010年には、プロ入り初本塁打を含む9本塁打をマーク。65試合に出場と前年より出場機会を大きく増やした。
4年目の2011年は「7番・レフト」で初めて開幕戦にスタメン出場を果たすと、5月下旬には小谷野栄一に代わり4番に座る。その勝負強いバッティングで打点を稼ぎ出し、プロ入り初めて規定打席に到達。チームトップの18本塁打、91打点を挙げ、チームを代表する長距離砲に進化を遂げた。
翌2012年には、この年から就任した栗山英樹監督が開幕から中田を4番で起用し続け、全試合で4番打者として出場。チームのリーグ優勝に貢献した。
履正社高時代は俊足強打の内野手として名を馳せ、2010年にドラフト1位でヤクルトに入団。1年目はレギュラーシーズンで1軍出場はなかったが、中日とのCSファイナルステージ第2戦では「1番・ショート」に抜擢され、スタメン出場を果たす。
3年目の2013年には、シーズンの途中で田中浩康からセカンドのレギュラーの座を奪い、出場機会を増やす。
2014年は開幕から「1番・セカンド」で出場し続けた。杉村繁打撃コーチと試合前にティーバッティングを繰り返した成果が現れ、メキメキとバッティングの調子が上がっていく。終わってみれば打率.324の好成績。この年に積み重ねたシーズン193安打は、藤村富美男(大阪タイガース)が持っていた日本人右打者の最多安打記録を塗り替える偉業だった。
さらに昨年はトリプルスリーを達成し、リーグMVPを獲得。日本シリーズでも史上初の3打席連続本塁打を放つなど、球界を代表するバッターとなった。
文=武山智史(たけやま・さとし)