昨年のドラフト会議で2度のクジを外した広島は、今年ある“奇策”に出た。重複指名の際の抽選を担当スカウトに引かせたのだ。高校3年時から急激な成長を遂げてきた大物右腕と、その姿を誰よりも見守り続け、そして引き寄せられるように当たりクジをつかんだ担当スカウト。二人の間には5年間の物語があった。
2009年、5月。田村恵は福岡県古賀市のはずれにある、九産大九州高の野球部専用グラウンドにやってきた。
ちょうどゴールデンウイークの最中に組まれた練習試合である。遠征バスが2台と、連休を利用して大挙連れ立ってきた保護者の自家用車が停まっているぐらいで、特に変わった雰囲気が漂っているわけではない。
他球団のスカウトマンは、誰もいなかった。
「そりゃ他にいるわけないよ。誰も知らない選手の練習試合なんだもん」
この日、グラウンドで練習試合を行う両チームの監督に挨拶を済ませた田村は、ブルペンへと向かった。両チームの先発投手が、間もなく始まろうとしている試合に向けて、急ピッチで肩を作っている。ここで初めて目にしたターゲットは、手前側のマウンドで黙々と投げていた。
「やや突っ立ち気味だったものの、身長があるぶん他の投手にはない“角度”があったね」
それが、広島東洋カープ九州地区担当スカウトと長崎日大高の無名の逸材、大瀬良大地とのファーストコンタクトだった。
「長崎日大に185センチの3年生投手がいるという話は聞いていた。その年は清峰の今村猛(広島)のところに足しげく通っていたから、長崎の情報はわりと持っていたと思う」
九州地区が“人材の宝庫”と言われた年だった。高校生だけでも、ドラフト上位指名が期待できる選手はゴロゴロといた。清峰高・今村、明豊高・今宮健太(ソフトバンク)、福大大濠高・川原弘之(ソフトバンク)。
さらに九州国際大付高・河野元貴(巨人)、福工大城東高の梅野隆太郎(福岡大→阪神4位)、八重山商工高・大嶺翔太(ロッテ)、浦添工高の運天ジョン・クレイトン(日本ハム)、秀岳館高・国吉佑樹(DeNA)といった目玉選手が目白押しで、この年の秋には九州地区から3人の1位を含む16名がドラフト指名された(大学生選手、育成指名を含む)。
地区担当スカウトは近年にないほど多忙を極めた1年間である。高校3年春を迎えて、まだまだ才能を眠らせていた大瀬良の存在が浮上してこなかったのは、無理のない話だった。あくまで「(長崎)日大に体のデカイ投手がいる」という程度の評判に過ぎなかった。
そんな間隙を突いて、田村は大瀬良との運命の出会いを果たしたのだった。
「たしかに身長はあって手足が長く、見栄えはよかったよね。でも、まだまだ体が細く、制球力も全然。変化球のキレもなかったね。この時のスピードガンは135キロぐらいだったかな。ただね、10球に1球ぐらいの割合で“おやっ!?”という球がくるんだ。速いわけでも、コントロールしているわけでもない。ただ、外角低めに凄い球が伸びてくるわけ。あの“10球に1球”のインパクトは、今でも忘れないな」
その後、田村は同地区の1位候補、今村同様に大瀬良に対するチェックを強化した。この時点ではまだ他球団の気配は感じられなかったという。広島の“マンマーク状態”に突入である。
しかし、当の大瀬良は「プロのスカウトに見られているなんて、想像すらしていませんでした」と、ただひたすらに目前に迫った最後の夏に集中していた。
「3年夏前までは『学校の先生になるには、どうすればいいんだろう?』なんてことを漠然と考えていましたからね。ただ、5月ぐらいから“あれ? なんか球速がアップしてないか?”と感じ始めたんですよ」
その頃になって大瀬良はようやく、グラウンドで頻繁に見かける、メガネをかけた男の存在に気がつくようになった。どうもプロのスカウトが自分を見に来ているらしい。俄然、大瀬良の練習にも熱がこもっていく。
試合での登板機会が減る6月の梅雨時期になると、長崎日大高・金城孝夫監督によって、密度の濃い猛練習が課せられた大瀬良。「今までで一番練習した」という2年冬にも引けを取らない、体力強化メニューが組まれたのだった。この頃には「長崎日大の大瀬良大地」の名も広く知れ渡っていたので、多くの球団が大瀬良の視察にやってきた。しかし、梅雨練習の疲労がピークに達していたため、ブルペンでもマウンドでも、まったく球が走っていなかった。
「まだまだだな」
と評価した球団もあったかもしれない。それでも田村には「いい時の大瀬良は、オレしか見ていないだろ」という自負があった。
金城監督のコンディショニングコントロールによって、体力強化に成功した上、疲労が抜けた状態で夏を迎えた大瀬良。夏の大会では143、144、145…と投げるたびに球速が上がっていった。
かくしてセンバツ優勝の今村を擁する清峰高との準々決勝を迎えた。「その後の人生が一変した試合」と大瀬良が振り返る、運命の一戦。もちろんスタンドでは田村が見守っている。「秋に1位で指名するかもしれない今村と、気になって仕方がない大瀬良。夏はふたりの試合はすべて見たよ」
この日の大瀬良は、すでに145キロに達していた直球での力勝負ではなく、スライダーを軸とする変化球で清峰打線に的を絞らせない頭脳的投球を展開。かと思えば、要所で角度の効いた速球を外角低めに突き刺してくる。初回にもらった2点の援護も大きかった。結果、3対1で長崎日大高が勝利。大瀬良は被安打4で完投し、見事に今村との投手戦を制したのだった。
田村が振り返る。
「スライダーが冴えていたね。大きなスライダーの今村に対して、大瀬良のスライダーは小さくキレる。もちろん高校生レベルを超えていたよ。当然あの頃は今村の方が高い評価だったけど、大瀬良が投げ勝ったとしても、不思議でもなんでもなかった」
大瀬良本人は、この試合で「覚醒した」と言う。それまで眠らせていた才能や闘争心が、打倒清峰、打倒今村を目の前にして、一気に爆発したのだと言った。
覚醒した大瀬良は、そのまま長崎大会を制して甲子園に出場。初戦で花巻東高と対戦し敗れたが、自己最速の147キロを記録。一躍、黄金世代のトップランカーに仲間入りしたのだった。
「教師になること? はい、忘れました(笑)。あの頃にはもう、遠い夢でしかなかったプロ野球が、夢の世界のものではないとわかっていましたから」
3年夏の台頭によって、大瀬良は初めてプロへの志望を抱いた。しかし、金城監督や獲得に乗り出していた九州共立大・仲里清監督による熱心な説得によって、九州共立大への進学を表明した。
「大学で体を作ってからでも遅くはない。4年後には“即戦力”として、プロに送り出してやる」
という仲里監督のひと言が大きな決め手だった。一方、田村はこう思っていた。
「そりゃ志望届を出してほしかった。我々が直接お願いできるものではないから、金城監督や仲里監督にも、しきりに大瀬良に対する調査を繰り返したけどね。でも、本人が決めた以上、それは仕方がないことだから」
次回、「大学生ナンバーワン投手」
(※本稿は2013年11月発売『野球太郎No.007 2013ドラフト総決算&2014大展望号』に掲載された「30選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・加来慶祐氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)