大物プロ野球選手の引退が相次いだ今年。
11月25日、アマチュア球界で最も有名であろうHonda・西郷泰之(43)が引退を表明した。
“ミスター社会人”といわれ、社会人野球をリードしてきた好選手。野球界ではアマチュア選手の引退が報じられることは珍しく、さらに会見まで開かれることは異例中の異例といえるだろう。
西郷はなぜ“ミスター社会人”と呼ばれるに至ったのか。彼の球歴をあらためて紹介しよう。
東京・日本学園高で高校生活を送った西郷が、社会人野球入りする理由は少し変わっていた。
高校3年次に同級生が三菱自動車川崎(のちの三菱ふそう川崎)の練習会に呼ばれた際、「心細いからついてきてくれ」と言われ、一緒に参加。そこで抜群の打撃センスを見せた西郷は入社のオファーをもらうことになる。
高校球界では無名の存在であったが、社会人野球の舞台で西郷の能力は開花。6年目の1995年には一塁手部門で社会人ベストナインに選出され、日本代表にも初選出。
翌年には福留孝介(日本生命)、松中信彦(新日本製鐵君津)、今岡誠(東洋大)、谷佳知(三菱自動車岡崎)ら、のちにプロで大活躍する選手らとともにアトランタ五輪で銀メダルを獲得した。
まだ24歳。この時点では前出の選手たちにも劣らぬドラフト候補であった。左投左打の一塁手。外野もこなせ、五輪では2番レフトで柔軟な打撃を披露。「西郷はどこに入るのか」。当時の野球ファンはプロ入りを誰もが信じていた。
しかし結局、西郷には声が掛からなかった。25歳、26歳と年を重ねるに連れ、プロになれなかった自分への失望を抱き、野球を辞めようとさえ思ったという。
さらにその失意の中にあった1999年、日本代表合宿でピッチングマシンのボールが頭部を直撃。頭蓋骨骨折、脳挫傷の重傷を負ってしまう。
その病床で「もう野球ができなくなる…」と考えた西郷は、改めて自分の野球愛と向き合った。復帰後、待っていたのは10年ぶりに三菱自動車川崎の監督に就任した垣野多鶴(現・NTT東日本アドバイザー)だった。
アトランタ五輪でもコーチを務めていた垣野は、西郷が復帰するなり、「お前は全球フルスイングだ!」と打撃改造を指示。生まれ変わった西郷は巧打者から変貌を遂げ、生涯、都市対抗野球で史上最多の14本塁打を放つ強打者に成長していった。
2000年には三菱自動車川崎を都市対抗野球初優勝に導くと、川崎で3回、Hondaで1回、補強選手として出場した2回(いすゞ自動車、東芝)、10年間でなんと6度も都市対抗野球を制し、「優勝請負人」の異名を生んだ。
現役プロ選手でも西郷の背中を見て育った選手は数知れず。不屈の努力と野球愛はどこまでも語り継がれるだろう。
「もし西郷がプロに入っていたら…」
近年は全国の野球ファンがそんな想像を膨らませる選手だった。これまでの経験、リーダーシップを存分に生かし、将来指導者として野球の現場に戻ってくるはずだ!
文=落合初春(おちあい・もとはる)