いよいよ今年も、甲子園を沸かす夏が始まる。8月8日に開催される夏の甲子園への出場を目指して練習に明け暮れているであろう、全国の高校球児に立ちはだかるのは「地方予選」の壁だ。
先週土曜日の6月8日には、全国一、二を争う激戦区・神奈川県大会の組み合わせ抽選会が行われ、神奈川代表の座を勝ち取るまでの長い長い戦いが始まった。
今週のクローズアップ得点圏内ではその「地方予選」に注目。
晴れの舞台を目指す地方予選という舞台にも、人知れぬドラマがいくつもあるのだ。甲子園だけが高校野球じゃない! をテーマに、予選で消え去った球児たちのドラマ5番勝負を紹介しよう。
野球太郎読者なら覚えているであろう、122-0の圧倒的スコア。平成10(1998)年の青森県予選、東奥義塾と深浦(現・木造高校深浦校舎)の一戦は高校野球史に残る歴史的な試合だった。
初回から東奥義塾が39点を先制し、その後も毎回の2ケタ得点で5回を終了して93-0と野球の試合らしからぬ得点経過。実は当時の青森県の高校野球規定では、7回終了までコールド成立は認められなかったのだ。
5回終了時のグラウンド整備の際に、深浦ベンチでは放棄試合にするか、監督とナインが話し合ったそうだが「応援してくれる人のためにも、最後まで戦おう」と試合続行を決意。東奥義塾もその心意気に応じて最後まで手を抜かず、その結果122-0で7回コールド試合となった。
ちなみに翌年の青森大会に出場した深浦は、青森戸山と対戦し0−54で敗れたが、失点は前年の半分以下ということで“善戦した”と、これまたスポーツ紙に取り上げられたのだった。現在の高校野球の規定は「コールドゲームを採用する場合は5回10点、7回7点と統一する」とされており、春のセンバツ、夏の選手権の甲子園本大会以外は全てこの規定が適用される。
春のセンバツでは時々、甲子園出場校に不祥事があって補欠校が代わりに出場するケースがあるが、夏の選手権ではあまり聞かない。
ところが昭和14(1939)年の東京予選では前代未聞の事態で、代表校が二度も変わるという珍事件が起きた。この夏の東京都予選では、帝京商が日大三中を9-6で破り初優勝。喜びに沸く帝京商だったが、日大三中から「帝京商には連盟に登録していない選手がいる」とクレームがつき、これが受け入れられて帝京商は失格。代わりに日大三中が出場権を得たが、実は日大三中にも選手資格にふれる選手がいるなどして出場を辞退。結局、準決勝で帝京商に敗れた早稲田実業が第三位校として推薦され、東京代表となった。
神宮球場で帝京商に渡されたばかりの優勝旗だったが、一週間後には連盟の役員がやってきてこれを持ち去ってしまった。すでに列車の切符もとり、宿舎まで手配して甲子園への出発を心待ちにしていた帝京商ナインは全員、涙を流して悔しがったといい、学校の玄関先で帝京商の野球部主将は「持っていかないでくれ…」と優勝旗にすがって泣きわめいたという。
今でも地元の出場校には思わず肩入れしてしまうように、昔も“おらが町”の出場校を応援する高校野球ファンの気概はハンパなかった。
特に熱狂的ということで一番凄かったのが大正時代の四国で、その中から高松商や松山商などの名門チームが育ってきたのだ。大正4(1915)年、第1回大会の四国大会決勝戦は現在の高松商の前身である香川商と高松中の間で行われ、9-9の同点から延長戦で香川商が2点をあげて勝負アリ! と思われたが、高松中の打者が投手の投球にぶつかっていく“体当たり打法”で死球を選び(?)、2点をもぎ取り同点となった。これに激高した香川商の応援団はグラウンドに雪崩れ込み、収拾不能の大乱戦に。怒った香川商は試合を棄権してしまい、第1回代表は高松中となった。
さらに大正11(1922)年には高松商(香川県)と松山商(愛媛県)で決勝戦が行われ、試合は1-1のまま延長10回に突入。高松商が無死から走者を出すと、戦況が悪いとみた松山商のファンがなんと用水路の堰を切り、試合会場はみるみるうちに水浸しになってしまった。やむなく試合は中止になり、翌日場所を移しての再試合ではなんと松山商が勝利。“水攻め作戦”は成功した。この一件は香川県の野球人に“打倒松山商”の気概を強く植え付け、両県の対抗意識はさらにヒートアップするのだった。
昭和31(1956)年の北関東大会、足利工と藤岡高との間で行われた決勝戦は延長21回に及ぶ凄まじい大熱戦になった。1-1で迎えた延長15回、藤岡高は二死満塁のチャンスを迎える。ヒットで三塁走者が還り「藤岡高サヨナラ勝ち」と思われたが、一塁走者が嬉しさのあまり二塁ベースを踏まず、途中から引き返してホームインして喜んでいる歓喜の渦の中に混じってしまった。これを見逃さなかった足利工は外野からの返球を受けて二塁ベースにタッチして審判にアピール。一塁走者は二塁フォースアウトとなり、得点は取り消されてしまった。
結局そのまま延長戦が続き、21回に足利工が決勝点を挙げて2-1で足利工が勝利。藤岡高の甲子園出場は成らなかった。甲子園行きの切符を一度は掴みながらも“ボーンヘッド”で失った藤岡高。それ以後、同校の甲子園出場はいまだない…。
高校野球史上、最強の高校はどこか? ファンの間ではよく囁かれる話題だが、個人的には和歌山中を推したい。特に大正時代後半は無敵を誇り、大正10、11(1921、1922)年夏の大会で連続優勝。10年の第7回大会は予選から甲子園決勝まで7試合でなんと157得点、1ゲーム平均22得点というすごい攻撃力だった。和歌山県ではあまりにも和歌山中が強かったので予選で特別ルールが設けられた。県予選で和歌山中に負けた学校は再度、復活させるというルールで、和歌山中の恐ろしいまでの強さをうかがい知ることができるエピソードだろう。
さらに昭和2(1927)年、小川正太郎投手を擁した和歌山中は春のセンバツで優勝。主催者側からの“ご褒美”で夏休みに米国遠征に旅立ったが、もちろんその間も夏の選手権は行われた。そこで和歌山中は、この年の県予選には留守番の二軍メンバーで予選に参加。堂々、県予選で優勝して甲子園に出場してしまった。当時のライバル校であった海草中や和歌山商にとっては甲子園行きの絶好のチャンスだったが、結局は和歌山中の留守番組である二軍メンバーに敗れ、本大会出場は成らなかった。
ちなみにこの年の和歌山県下の各校の野球部ナインたちは「俺たちは二軍にすら勝てなかったのか…」と悔しがり、涙したといわれている。大正、昭和の昔から現在まで、脈々と続く地方予選の戦い。今年はどんなドラマを見せてくれるのか、各県の地方予選にも是非、注目してほしい。