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この野球、余人口をはさむべからず〜沖縄水産・裁弘義元監督


豊見城高校・沖縄水産高校他 栽弘義元監督


高校野球とJALとANAが縮めた沖縄との距離


 1972年5月15日。第二次世界大戦後、アメリカの統治下に置かれていた沖縄が日本に返還された。それは私が生まれた翌年のことだった。今となっては、沖縄は定番の観光スポットであり、沖縄料理屋でオリオンビールを飲みながらゴーヤチャンプル、ラフティ、ポークソーセージと卵焼き、ケチャップ味の沖縄やきそばなどに舌鼓を打つことは珍しくない。

 しかし、私が幼い頃の沖縄はとても遠いところ、という感じだった。岡山で小学生時代を過ごした私は毎年、夏休みになる祖父母が暮らす熊本に帰省していたこともあって九州地方には親近感を持っていた。山陽新幹線と鹿児島本線を乗り継いで岡山駅から熊本駅を目指すわけだが、その中継点となる福岡の博多、目的地の熊本、九州の南端にある熊本のお隣さんの鹿児島までは子供心になんとなくイメージを掴めていた。が、その先にある沖縄となると、鹿児島のさらに南の方の海とおぼろげに浮かんでいたのだ。

 沖縄についての古い記憶を辿ると、小学校低学年の頃に爆発した切手ブームのなかでポピュラーだった「沖縄国際海洋博覧会記念切手」(1975年発行)。1978年夏の甲子園準々決勝で地元・岡山東商と対戦した豊見城。WBA世界ライト級チャンピオンの具志堅用高(カンムリワシ! あの頃の小学生はプロレスとボクシングが大好きで、世界チャンピオンの座を13回も防衛した具志堅は間違いなく小学生のヒーローのひとりだった)。具志堅に次いで沖縄出身の世界チャンピオンになった渡嘉敷勝男。読書感想文の課題図書かなにかで読んだ『ひめゆりの塔』(当時の小学生はみんな読んでいた1冊だけど、今はどうなんだろう)。

 あとは、1980年から1983年にかけて甲子園にやって来た興南。JAL沖縄キャンペーンのポスターでみた女子大生タレント・斉藤慶子の黒くて小さなビキニ(1982年)。石川優子とチャゲが歌ったJAL沖縄キャンペーンソング「ふたりの愛ランド」(1984年)。ANA沖縄キャンペーンの石田ゆり子のがっつりと脇があいた黒いハイレグの水着(1987年、キャンペーンソングは山下達郎の「踊ろよ、フィッシュ」)。1984年から1991年にかけて8年中7年甲子園にやってきた沖縄水産。米米CLUBのJAL沖縄キャンペーンソング「浪漫飛行」(1990年)……。

 こうしてみると、高校野球と航空会社のキャンペーン(と具志堅用高)が沖縄と私の距離をぐっと縮めてくれていたようだ。

天下統一の旗印を掲げた豊見城


 1990年に明治大学に進んだ私はパンクやニューウェーブと呼ばれるロックにどっぷりとはまっていた。大学での専攻は演劇学というマニアックなものだった。高校野球をみている友人は同じクラスのH君だけ。H君は元高校球児。篠ノ井野球部の主力で3年春の長野県大会優勝というバツグンの経歴を持ち主だった。だが、進学先は演劇学専攻。なぜ。本人に尋ねると理由は「なんとなく」ということらしい……(大学を卒業した翌年の夏。就職もせずふらふらしていた私とH君は、東急田園都市線・鷺沼駅の線路脇にあった鷺沼プールの芝生でぼんやりとラジオを聞いていた。ラジオからは佐賀商と樟南による甲子園の決勝が流れていた)。音楽周りでは高校野球に興味を示す友人は誰もいなかった。

 1991年夏。お酒を覚えた私は頻繁に明大前の沖縄料理屋「宮古」に足を運んでいた。ソ連ではクーデターが起き、新聞やテレビは毎日そのニュースで埋め尽くされていた。なくなるはずない東の帝国が終焉を迎えようとしていた。JAL沖縄キャンペーンソングは上々颱風の「愛より青い海」だった。そして甲子園では沖縄水産が頂点に立とうとしていた。

 沖縄の高校野球を振り返ってみる。1968年に初出場でベスト4に進出した興南を除くと、沖縄の高校は首里が初めて甲子園の土を踏んだ1958年からほとんど勝てない時期が続いていた。そんな苦境を覆したのが豊見城だった。

 豊見城は1975年春にベスト8。1976年から1978年にかけて3年連続夏ベスト8。エース・赤嶺賢勇(元巨人)がいた1975年春は甲子園スター原辰徳(元巨人)の東海大相模を土俵際まで追いつめた(1対2で惜敗)。強打の捕手・石嶺和彦(元阪急他)がいた1977年夏には細やかすぎる精神野球の広島商を1対0の最小スコアで破ってみせた。今では強豪となった沖縄勢だが、本土に向けて初めてはっきりと天下統一の旗印を掲げたのは豊見城だったのだ。

 続いて1980年代半ばからは沖縄水産が執念めいたエネルギーで甲子園の頂を目指した。1986年夏にベスト8、1988年夏にベスト4、1990年夏には準優勝。天理に破れた決勝戦のスコアは0対1と僅差。天下統一まであと1歩に迫った翌1991年夏、沖縄水産は再び決勝戦に駒を進めてきた。壊れた右ヒジを抱えたエース大野倫がマウンドに立ち続けながら、死力を尽くして打撃戦をものにしてきた。大野自慢のストレートは最速より20キロ近く遅くなっていた……。

沖縄の宿願達成を前にエースと心中……


 豊見城と沖縄水産の監督は栽弘義。太平洋戦争末期の1945年アメリカ軍が沖縄に上陸した。政府の思惑で沖縄は本土防衛の捨て駒にされた。この時、栽監督は4歳だった。雨あられと降り注ぐ爆弾。洞窟に逃げ込んだ人々をあぶり出す火炎放射器。この沖縄戦で亡くなった民間人の死者9万4千人と言われている。悲惨な戦いは、栽監督の背中に大きなやけどを残した。

 1972年に豊見城の監督となった栽監督の宿願は明確だった。「技術も戦術も経験も勝る本土の強豪校に追いつき、追い越す」、「高校野球を通して沖縄の戦後に決着をつける」。栽監督は手作りの器具でパワーとスピードを鍛えた。おおらかな沖縄の高校生に細やかな戦術を植え付けた。「ヤー、死なす!(きさま、殺す!)」。鬼気迫る猛特訓の末、甲子園に登場。豊見城の名を全国に轟かせた。1980に赴任した沖縄水産には2つの野球グラウンド、6人が投げられるブルペン、バッティングケージが揃っているが、それらのほとんどは手作りだという。

 1991年夏。沖縄水産が勝ち進む裏で、宿舎では栽監督がエース・大野の右ヒジを懸命にマッサージしていた。整体師や鍼灸師も呼ばれた。準々決勝から大野の右ヒジの感覚は失われていた。箸さえも満足に持てない。しかし泣き言は言わない。こうして迎えた大阪桐蔭との決勝戦。マウンドには4連投のエースが立っていた。序盤から打ち合いとなった戦いは沖縄水産が4回を終えて7対4とリードするも、8対13で力尽きる。大野は最後まで投げきった。

 「大野! 大野!」。沖縄水産最後の攻撃、4番打者として打席に向かう大野に大歓声が飛んだ。観客はみな何が起こっているのか知っていたからだ。大会6試合を通じて大野は773球を投げ、投手生命にさよならを告げた。鮮烈な痛みを残して栽監督は大野と心中、宿願は潰えた。そして大野の青春も散った……。

 試合が終わると、非情な男だと栽監督に非難の声が浴びせられた。この試合をきっかけに投手の健康管理が義務づけられるようになった。しかし、大野はあの夏をこう振り返っている。「たかが野球に命を賭けるつもりで投げていました。栽先生が最後まで投げさせてくれて感謝しています。中途半端に終わったら遺恨が残ったかもしれません」。また、ファーストを守っていた具志川は「どんだけ打たれてもマウンドにいたいという倫のオーラ、まねできない」と……。

 将来のため大切なものは何か。悔いとは何か。その答えは出ないだろう。最後の夏は万人共通のものではないのだから。そして誰かの夢が崩れる様を目の当たりにする痛烈さが高校野球の魔力のひとつだと高校野球ファンなら知っているはずだ。たとえ正論でも、余人が口を挟んではいけない世界がある。

■著者プロフィール
山本貴政(やまもと・たかまさ)
1972年3月2日生まれ。ヤマモトカウンシル代表。音楽、出版、サブカルチャー、野球関連の執筆・編集を手掛けている。また音楽レーベル「Coa Records」のA&Rとしても60タイトルほど制作。最近編集した書籍は『デザインの手本』(グラフィック社)、『洋楽日本盤のレコードデザイン』(グラフィック社)、『高校野球100年を読む』(ポプラ社)、『爆笑! 感動! スポーツの伝説超百科』(ポプラ社)など。編集・執筆した書籍・フリーペーパーは『Music Jacket Stories』(印刷学会出版部)、『Shibuya CLUB QUATTRO 25th Anniversary』(パルコ)など。

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