今年はトレードが活発だった。目玉の一つはモヤのオリックス移籍だ。モヤの移籍に際し、ファンやメディアの間では「ブライアントの再来」の声が飛び交った。
1980〜90年代のプロ野球ファンならば、誰でも知っている名助っ人だが、改めてブライアントの活躍を振り返ってみたい。
モヤが「ブライアントの再来」と言われるのは、中日からの金銭トレードという点だ。
ブライアントは1988年5月に来日。当時27歳、ドジャースから年俸780万円で中日に移籍した。1985年にメジャー昇格を果たしていたが、3年間で79試合、打率.253、8本塁打に留まっており、メジャー定着には至っていなかった(来日前年の3Aでの成績は75試合、打率.259、16本塁打)。
とはいえ、そんな年俸でよくぞ……と思うが、当時の中日はドジャースとの密な提携を進めており、山本昌らもアメリカ留学を経験している。そんな中、ブライアントが日本に送り込まれたのだ。
ちなみに日本からアメリカへの留学にあたって中日が用意した飛行機はエコノミークラスだったという。ブライアントがエコノミーだったかは定かでないが、ドジャースではほぼ構想外であったことに間違いはない。そしてブライアントもチャンスを求めていた。
しかしながら、ブライアントは「第三の外国人」だった。中日の1軍には郭源治とゲーリー・レーシッチがいた。当時の外国人枠は2人。投打の軸を外すわけにはいかず、ブライアントは2軍暮らしを余儀なくされた。
2軍では26試合で打率.275、6本塁打。持ち前のパワーを発揮しつつあった。日本での2軍暮らしはかなりきつかったようだが、ブライアントに幸運が訪れる。近鉄のデービスがなんと大麻所持で逮捕されてしまったのだ。ちなみにデービスの一件は、昭和パ・リーグの語り部・金村義明氏が持ちネタにしている。
とにかく、主砲を失った近鉄は代役探しに奔走する。そこで白羽の矢が立ったのが、ブライアントだった。ウエスタン・リーグでの対戦もあっただろう。大振りでアラも多いブライアントだが、最後は中西太コーチが「これなら直せる」と踏み、獲得に動いたのだった。かくしてブライアントは6月28日に近鉄に金銭トレードで移籍した。
モヤもメネセスのドーピング違反がなければ、いまだに中日の2軍でくすぶっていたかもしれない。そういう意味では、不幸の裏でチャンスに恵まれたところもダブる。
6月29日に近鉄でNPB初出場を果たすと、その年、74試合で打率.307、34本塁打を記録。大ブレイクを果たした。
しかし、このブレイク劇の要因は、出番に恵まれていなかったという1点だけではなかった。ハングリー精神にあふれるブライアントは、毎日のように若手に混じり、中西太コーチの特訓を受けていたという。
その結果、翌1989年には49本塁打をかっ飛ばし、堂々の本塁打王に。シーズン最終盤には首位・西武とのダブルヘッダーで4打数連続の本塁打をぶちかまし、逆転優勝に貢献。MVPまで獲得した。
三振も多かったが、圧倒的なパワーは今も伝説的だ。1990年には東京ドームで天井中央のスピーカーに当て、初の「認定本塁打」に。当然、東京ドームは天井に当たらないように設計されていたが、“不可能”をぶち破る伝説弾(推定飛距離160メートル)を放った。
ちなみに当時のインセンティブは1本塁打につき、10万円。ブライアントは「ケタを一つ間違っているのかな?」と思ったそうだが、助っ人ながら“渋チン近鉄”をジョークにすることも忘れない。
最終的に近鉄で8年間プレーし、3度の本塁打王(5度の三振王)に輝いたブライアント。外国人枠の関係でくすぶる助っ人の最成功例になっている。昨季46試合で打率.301、3本塁打を記録しながら、出番に恵まなかったモヤに期待がかかるのも当然だろう。
8月6日時点でモヤは26試合で打率.268、4本塁打。大爆発には至っていないが、シーズン終了まで約2カ月。まだまだブライアント化のチャンスは残っているはずだ。
ブライアントは決して日本の野球を下に見なかった。モヤも昨秋はフェニックス・リーグに参戦するなど、ハングリー精神旺盛だ。バファローズの救世主、そして令和のブライアントになれるか。我々はいつだって再び「ブライアントの再来」と言う準備はできている。
文=落合初春(おちあい・もとはる)