開幕直後の4月2日、来日が延びていたDeNAのユリエスキ・グリエルの契約解除が発表された。大物選手のまさかの電撃退団は、多くの野球ファンに衝撃を与えた。
キューバ出身選手の元祖が「チコ」の愛称で知られるロベルト・バルボンだ。キューバ革命以前の1955年に阪急へ入団。1年目から「1番・セカンド」に定着し、自慢の俊足で49盗塁をマークする。2年目には自己最多の55盗塁を挙げ、同年85盗塁で盗塁王となった河野旭輝との1、2番コンビは相手チームにとって脅威となった。1958年からは3年連続で盗塁王を獲得。来日10年目の1964年、8月4日の南海戦にてスタンカから安打を放ち、パ・リーグの外国人選手では初となる通算1000安打を達成した。
翌1965年に近鉄へ移籍し、同年限りで現役を退く。引退後には阪急のコーチを経て、1975年にベネズエラ出身のボビー・マルカーノの通訳として再び脚光を浴びる。ヒーローインタビューの際の関西弁を交えた軽妙な語り口は多くのファンを喜ばせた。現在は「オリックス・バファローズ少年少女野球教室顧問」を務め、81歳となったいまでも指導にあたっている。
アメリカ・マイアミ育ちだが「カリブの怪人」の愛称の通り、元々はキューバ出身。幼い頃に家族とともにアメリカへ亡命した。1989年のシーズン途中に西武へ入団すると、83試合の出場ながら32本塁打をマーク。さらに翌年には42本塁打、106打点という成績でパ・リーグ二冠王に輝いた。巨人と対戦した日本シリーズでは第1戦に先制3ランを放ち、のちに4連勝で日本一となる勢いを作ったのはデストラーデといっても過言ではなく、シリーズMVPも獲得した。1991年も本塁打、打点の二冠王、そして、1992年は3年連続本塁打王に輝いた。常勝西武を支えた秋山幸二、清原和博とともに形成した「AKD砲」のクリーンナップは、今でも語り継がれている。
日本での活躍が評価され、1993年にメジャーに返り咲く。フロリダ・マーリンズで2年間プレーした後、1995年には西武に復帰。5月8日のオリックス戦では大差で負けている中、急遽ピッチャーとして登板したこともあった。
17歳でキューバ代表入りして以降、キューバ代表の中心選手として活躍。1992年アトランタ五輪、1996年アトランタ五輪と2大会連続の金メダルに大きく貢献するなど「アマチュア最強軍団」「赤い稲妻」と呼ばれた90年代のキューバ代表の顔と言うべき選手だ。
2001年限りで代表を引退したリナレスだったが、翌2002年の6月、中日に入団。キューバの大物バッターの突然のNPB参戦は大きな話題となった。来日当時34歳と選手として峠を過ぎており、在籍した3年間で計11本塁打とあまり活躍はできなかった。しかし、西武と対戦した2004年の日本シリーズでは第3戦、第4戦と2試合連続で本塁打を放ち、往時の片鱗を見せつけた。