大洋、東映、阪神で21年に渡って活躍し、117勝を挙げた権藤正利。その選手人生の結末は壮絶だった。
1973年、39歳にも関わらずバリバリ現役だった権藤だが、金田正泰監督とたびたび対立。周囲の証言によると「サルでもタバコを吸うんか?」などとからかわれていたことが我慢ならず、ついにはシーズンオフのファン感謝デーに監督室で金田監督をぶん殴って球界を去った。
ちなみに同年8月には、同じく阪神の投手である鈴木皖武が金田監督をぶん殴って謹慎処分に。金田監督は1年に2回、選手に殴られたことになるが、実は現役時代に当時の監督・藤村富美男に退陣要求を突きつける「藤村排斥事件」を起こしており、確執の歴史が繰り返された形となった。
メジャーリーグへの道を切り拓き、パイオニアたる存在になった野茂英雄(元近鉄ほか)も監督との確執に左右された男のひとりだ。近鉄時代の1993年、就任した鈴木啓示監督とは、とことん反りが合わなかった。
当時の近鉄投手陣は立花龍司コーチとともにアメリカの最新トレーニングを取り入れていたが、鈴木監督は根っからの「走り込み根性派」。さらにはトルネード投法を幾度も改造させられようとした挙句、投げ過ぎで肩を壊した野茂は「こんな監督の下で野球はできない」と移籍を決意。
球団とも大揉めした末に任意引退という形でドジャースに移籍した。
野球ファンにとってはメジャーリーグへの道が開けたことで「ケガの功名」ともいえるが、当時の近鉄ファンは涙を飲んだ。
監督と対立し、大暴れをしたと明かしているのは球界の一匹狼として中日、オリックス、楽天を渡り歩いた山崎武司(元オリックスほか)だ。
中日時代は星野仙一監督や山田久志監督と口も利かない険悪な仲となり、オリックスに移籍。オリックス1年目は石毛宏典監督とうまくやっていたのだが、2年目に伊原春樹監督が就任すると大荒れの展開に……。
地元・ナゴヤドーム3連戦にスタメン起用の約束を取りつけた山崎は、知人を大勢招待していたが起用されず。伊原監督に抗議に行ったところ、そこで口論となり、ついにはバットを投げつけて帰ってしまった。
シーズン最終戦前には「水に流そう」と伊原監督から電話があったものの、「もうアンタとは終わってんの!」と電話をガチャ切りしたとテレビ番組で明かしている。
ほかにもいろいろな選手が細かい騒動は起こしているが、ここまでの大暴れはなかなかお目にかかれない。「和を以て貴しとなす」を重んじるのが日本人の有り様だが、自分の贔屓チームでなければ、こうした騒動に少しワクワクしてしまうのはなぜだろうか……。
文=落合初春(おちあい・もとはる)