高校野球界の名物監督を紹介する本企画。今回は巨人・原辰徳監督の父であり、三池工高、東海大相模高、そして東海大で指揮を執った原貢監督を紹介したい。
1965年夏、初の甲子園にして全国制覇の偉業を達成した三池工高。福岡の炭鉱の街を沸かせた三池工高を率いたのは、当時29歳の青年監督・原貢氏だった。
現役時代は鳥栖工高、立命館大でプレーし、大学中退後は東洋高圧大牟田に進んだ。1959年、23歳で監督に就任したが、そのときはまだノンプロでプレーしており、血気盛んだったという。
猛練習でも知られたが、特に力を入れたのは打撃だった。1980年代に徳島・池田高の「やまびこ打線」が全国的に名を馳せ、1990年代にはパワー野球が全盛を迎えているが、三池工高は1965年にすでにそれを実践していた。練習の大半を打撃に割き、さらにバーベルでのウエートトレーニングまで取り入れていた。
当時の選手たちは「とても怖かった」と口を揃えるが、自分の給料を叩いて、選手一人ひとりに合ったオリジナルバットを作ったり、クリスマスには自宅でカレーを振る舞うなど、アメとムチの使い分けがうまい監督でもあった。
初の甲子園では選手たちに「ここまで来たんだ。あとは自由にやっていいぞ」とニコリ。緊張感を解きほぐす術も知っていた。
30万人が集まった優勝パレードを見ていたのが、当時小学1年生の辰徳少年だった。
全国制覇の翌年の1966年、東海大学創設者・松前重義氏に請われ、東海大相模高の監督に就任する。当時の神奈川県は法政二高をはじめとするスマートな野球が全盛だったが、やはりここでも打撃一本で勝負をかけた。
はじめのうちはなかなか結果が出なかったが、機動力野球とパワフルな野球の激突は原貢監督に軍配が上がった。一度、パワフルな野球が完成してしまうと、後続はなかなか追いつけない。パラダイムシフトの必要のない「甲子園未出場校」と原貢監督のパワー野球は見事に合致した。
1969年夏に東海大相模高を甲子園初出場に導くと、1970年夏には自身2度目の全国制覇。1974年には息子・辰徳選手も同校に入学し、親子鷹として、注目を集めた。
親子の縁を切り、人の3倍の鉄拳制裁を受けたという辰徳青年だが、ここで父から野球人として大事な采配術を学んだという。
たびたび、懐述しているのは、1974年夏、スーパー1年生・辰徳選手にとって初めての甲子園、それも初戦の土浦日大戦だった。1点を追う9回裏、2死からランナーを一塁に出すと、原貢監督は盗塁を指示し、見事に成功。土壇場で同点に追いつくと、延長16回裏にサヨナラ勝ちを収めた。
失敗すれば試合終了。しかし、原貢監督には勝算があった。相手ベンチを見ると勝ったとばかりに帰り支度を始めている。ここは走れると読み、盗塁に打って出たのだ。まずもって、その場面で相手ベンチを見ていることがすごい…。
時は経て、平成、令和。巨人・原辰徳監督が時折見せるアグレッシブな盗塁の原点になる采配だった。
2000年春、2011年春、2015年夏、その後、東海大相模高は3度の全国制覇を成し遂げる。2000年春に指揮を執っていたのは、当時31歳の門馬敬治監督だった。
門馬監督は原貢監督に師事した秘蔵っ子。東海大時代は原貢監督の運転手を任され、監督としての帝王学を学んだ。
門馬監督は原貢監督を「おやじさん」と呼ぶ。門馬監督が掲げた「アグレッシブ・ベースボール」は原貢監督が築いた積極的な打撃、走塁の現代版だ。そして最後は「ファイトがある方が勝つ」。
2014年5月、心筋梗塞のため、原貢監督はこの世を去ったが、プロ野球界、高校野球界で「息子たち」がその野球と魂を受け継いでいる。
文=落合初春(おちあい・もとはる)