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WBCをきっかけに会いに行く(後編)

 雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!


 アメリカでの野球留学が実現したのは1964年3月。法政二高から南海に入団して2年目の春、マッシーさんは新人の高橋博捕手、田中達彦内野手とともにSFジャイアンツ傘下1Aのフレスノでプレーすることになりました。

 チーム内での期待度が高い若手選手の渡米。もっとも、今から思えば意外なことですが、日本から出発するとき、マスコミはマッシーさんよりも新人2選手に注目したといいます。「2年目の選手よりも新人のほうが話題性あり」と判断されたようです。

 では、なぜ、日本での注目度も高くなかったマッシーさんがメジャーに昇格できたのでしょうか。しかも2A、3Aと段階を踏んだのではなく、1Aから一気の飛び級だったことに驚かされます。

「キャンプが終わってフレスノに行く前にね、3Aの監督から『マッシーはもう2Aの力があるな』と言われていたんだよ。でも、フレスノは日本人の町があるから、ってことで1Aに配属になったの」

 実は当初から、投手としての実力を見込まれていたマッシーさん。64年のシーズンは1Aで49試合に登板して11勝7敗、防御率1.78。106イニングで159奪三振と、かなりの三振奪取率です。

「あの頃、自分の投げたボールは、真っすぐとカーブとスクリューと。チェンジアップはあんまり使わなかった。みんな、変化球がよかったから結果を出せたと思ってるけど、俺、その前の年の秋季キャンプで絶好調になってさ。投げててヒジが前に出るのよ、きれいに。コントロールがものすごくよくなって、ボールのキレもよくなった」

 入団当初に痛めた左ヒジも癒えたマッシーさんは、ボールのキレと制球力でアメリカのバッターと相対していたそうです。それにしても、高校出2年目で渡米していきなり結果を残すなんて、相当の度胸がなければ難しいと思えます。

「高校2年のとき、夏の予選で初めてスクリューを投げた。左バッターに。そしたら頭にデッドボール。スタンドから『人殺し』って言われたよ。だけど、投げるほうはぶつけるつもりでやってるわけじゃないからね。もちろん選手には悪いけど、スタンドの人には『この野郎』と思ってた。あそこで、ぶつけたことに対して、心臓がドキドキしたんだったら、プロじゃあ、通用しなかったと思う」

 もともと備わっていた、物怖じしない、プロ向きの性格。それでも、日本とは異なる環境で苦労した面があったはず――と思って尋ねてみると、休日には観光名所に行ったり、遠征で休みのときはチームメイトと遊びに行ったり……。移動中のバスでは必ずいちばん前に座って映像を撮ったりと、楽しそうな話ばかりが披露されたのです。

「確かに、辛いこともあるにはあったよ。連中、いたずらが好きだから、チームメイトと喧嘩になりそうなこともあったし。でも、いいヤツもいて、仲のいいヤツもいて、みんな野球で一旗あげたいっていう気持ちが強いから、負けたら負けたでお互い悔しくなるし、勝ったら勝ったでワーッてなるし。チーム的にはすごくまとまっていたから、フレスノでは非常に楽しかった」

 アメリカでの生活を楽しみ、野球も楽しむ――。僕はそこに、[日本人初]の由縁があるような気がしました。
 そのうえ、当時はメジャーの情報も少なく、一流バッターの凄さ、怖さも知らないまま勝負を挑めたことも功を奏し、64年9月1日のメジャー初登板も平常心で臨めたのだそうです。

「誰が誰だかよくわかんないから、相手がメジャーリーガーだっていう意識もない。インサイド、アウトサイド、ここんとこへピューンと放りゃあ、三振! ドキドキとか、ソワソワとか、そんなのなかった。マイナーでのピッチングをそのまま出し切ったら、結構、いけたのよ」

 トータルでは9試合に救援登板してメジャー初勝利も挙げ、防御率1.80の好成績。マッシーさんは翌65年もジャイアンツと契約を結んだのですが、あくまで野球留学と考えていた南海との間で大問題に発展。最終的には日米のコミッショナーの話し合いによって、65年だけメジャーでプレーすることを許されたのでした。同年のマッシーさんは45試合に登板して4勝1敗、8セーブ、防御率3.75。

 帰国後は南海、阪神、日本ハムで活躍して通算103勝。68年には18勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得し、計五度のシーズン2ケタ勝利を達成しているマッシーさんですが、メジャーに対する思いは複雑だったようです。

「最初、自分が日本で第一線でやってるときには、誰もメジャーに行ってほしくない、と思った。自分は無理矢理、帰ってきたようなもんでね。それなのに、ほかの人が行ってやれるなんて不公平だな、という気持ちが自分なりにあったから」

 奇しくも、マッシーさんが現役を引退した1982年以降も「第二の日本人メジャーリーガー」は誕生せず、1995年に野茂英雄が出現して初めて、「後輩」たちがどんどん増えていったのでした。

「俺、18年目にヒジを壊してね、さすがにもうメジャーっていうのはないなと。それからは、後輩が出てきてほしいと思ってたから、野茂がアメリカに行くとなったときはすごく喜んだよ」

 マッシーさんの話はそれから日米間の野球事情へとつながり、来日する外国人選手の話題が出ました。
 外国人選手は活躍の場を求めて日本にやって来て、実際に活躍する選手もいれば、順応できずに帰国する選手もいます。帰国した選手がまたメジャーでプレーするケースもある、ということから、マッシーさんは「日本人メジャーリーガーもそれと同じでいいんじゃないか」と言っていました。

「これからどんどんメジャーを目指す日本人が増えるにしたって、ダメならまた日本に帰ってきてやればいいの。実際、みんな帰ってきてるけどね。その土壌に合った人が働きゃいいのよ」

 ときに、2006年4月。ちょうど、斎藤隆がドジャースで投げ始めた頃でしたが、その斎藤も帰ってきて、今年から楽天に加入しました。
 今や、いわゆる“出戻り”選手はマッシーさんの言葉どおりに目立っています。そしてまさにマッシーさん自身、[メジャーから帰ってきた第一号]でもあるのです。  その野球人生を振り返るとき、どんな選手にも“出戻り”という言葉はふさわしくない、と思えてきます。


▲日本通算103勝は、すべてメジャーから復帰後に挙げた成績。南海、阪神、日本ハムで活躍した。



<編集部よりお知らせ>
facebookページ『伝説のプロ野球選手に会いに行く』を開設しました。プロ野球の歴史に興味のある方、復刻ユニフォームを見ていろいろ感じている方、ぜひ見ていただきたいです。

文=高橋安幸(たかはし・やすゆき)/1965(昭和40)年生まれ、新潟県出身。日本大学芸術学部卒業。雑誌編集者を経て、野球をメインに仕事するフリーライター。98年より昭和時代の名選手取材を続け、50名近い偉人たちに面会し、記事を執筆してきた。昨年11月には増補改訂版『伝説のプロ野球選手に会いに行く 球界黎明期編』(廣済堂文庫)を刊行。『野球太郎No.003 2013春号』では中利夫氏(元中日)のインタビューを掲載している。
ツイッターで取材後記などを発信中。アカウント@yasuyuki_taka

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