週刊野球太郎
中学、高校、プロ・・・すべての野球ファンのための情報サイト

“ほかにいない野球選手”養父鐵。道を切り拓くバイタリティの源は“できる”と思ってしまう性分

“ほかにいない野球選手”養父鐵。道を切り拓くバイタリティの源は“できる”と思ってしまう性分

 プロ野球のOBたちに現役時代のエピソードとユニフォームを脱いでからの第2の人生に迫る『プロ野球選手だった男たち 〜あの日々、そして第2の人生〜』。2人目のプロ野球選手OBには、台湾、ダイエー、アメリカ、メキシコ、ベネズエラと5カ国の野球を渡り歩いた養父鐵氏(全4話連載)が登場。養父氏は亜細亜大、日産自動車を経て2001年に、兄弟エレファンツ(台湾)と契約。26歳でプロ野球選手となり、持ち前のバイタリティあふれるスピリットで道なき道を切り拓きながら、波乱万丈の現役時代を送った。台湾では奪三振記録に台湾シリーズMVP獲得、アメリカ3Aではノーヒットノーランを記録している。

 2007年に引退した養父氏は2010年、神奈川県藤沢市にルーツベースボールアカデミーを開校。アカデミーの指導と並行して2015年は中信兄弟(台湾)の投手コーチ、2017年は四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックス(以下、徳島)の監督を務める。徳島では就任1年で独立リーグ日本一を達成。伊藤翔(西武3位)、大藏彰人(中日育成1位)と2人の投手をNPBに導いた。ユニフォームを脱いでなお、「自分の道」を進む波乱万丈な野球人生は続いている。養父氏の「ほかにない野球人生」を聞いた。

何でも自分で。ホワイトソックスとの契約を勝ち取る


 2002年10月1日、養父鐵氏はダイエーから戦力外通告を受けるも、その4日後には、ダイエー時代のチームメイト、カルロス・カスティーヨ(元ホワイトソックスほか)との縁でマイアミに降り立った。カルロス・カスティーヨの自宅に泊まり、トレーニングを積み、ホワイトソックスの入団テストに合格。傘下のチームに所属し、2003年からマイナーリーガーとして新たな道を歩み始めた。

 また、同時期にベネズエラとメキシコでのウインターリーグにも参加。ベネズエラでも、メキシコでも、日本人は養父氏だけだった。アメリカでは、何でも自分でやるしかなかった。

「アメリカに行った当時は、マイアミで話されている英語もスペイン語もわからない。通訳もいない。エージェントもいない。だから、自分ひとりでやるしかない。ホワイトソックスとの契約書もカルロスに教えてもらいながら自分で書いて。台湾でプレーしていたから北京語は話せたけど、英語で喋ろうと思ったら、北京語が出てきたり(笑)」

 ただ、おかげで野球にだけ集中できたのでよかったという。養父氏は1年目の2003年、シーズン開幕早々に2Aから3Aに昇格。2年目には3Aでノーヒットノーランを達成する。ベネズエラとメキシコのウインターリーグでは開幕投手も務めた。球は走っている。力の差を感じることは少なかった。

 なお、ベネズエラではアレックス・カブレラ(元西武ほか)、レンジャーズ時代のダルビッシュ有(ドジャース)とバッテリーを組んだヨービット・トレアルバがチームメイト。メキシコではマーク・クルーン(元横浜ほか)が相手チームのマウンドに立っていた。

 ベネズエラにメキシコ、治安も気になる……。

「治安はめちゃくちゃ悪かった。ベネズエラでは銃の撃ち合いが目の前で3回起こったし、試合中にブルペンで投げていると防弾チョッキを着たガードマンが2人後ろにいるんです。1人は銃を持って、1人は犬を連れて。日本にいる知人からは“危ないからやめておけ”と言われたんですけど……。でも、野球をやりたかったから」

 養父氏はアメリカでも“外国人選手”としてタフに野球を続けた。

僕はどこにいても楽しむし、周囲も楽しくさせる


 このような話を聞くと、普通は苦労が多分ににじみ出たり、悲壮感が漂うものだが、気さくな養父氏にはそんなムードはまったくない。第1話で触れたエピソードだが、ギターとオールディーズなロックンロールが大好きな養父氏は、マイナー時代、移動中のバスの中でギターを手に『ラ・バンバ』を歌って、大喜びするスパニッシュ系の選手と交流を深めている。そのバイタリティの源にあるものは?

「僕はどこにいても楽しむことができます。だから、そこにある苦労を大変とはとらえていなくて。しょうがないと割り切って、目の前にあるものから一番よくて、楽しい方法を見つけるだけ。しかも、自分だけ楽しむんじゃなくて、周りの人にも楽しんでもらえることを、常に考えるタイプです。おかげで、アメリカに行って、外国人の友達もいっぱいできました。そこで培った縁が、引退後の仕事につながっているし、積んだ経験が去年の徳島での独立リーグ日本一にもつながっています。ほかの人よりコミュニケーション能力に長けているんでしょうね」

 人が好き。それが養父氏の前向きなスピリットの根底にあるように思える。「苦難に燃えるタイプ?」と聞くと、「いや、燃えるというよりは“できる”と思ってしまうタイプ」と返ってきた。


野球も、ほかのやりたいこともずっとやってきた


 道なき道を切り拓くことで、ほかの人には想像のできない場所にたどり着ける。普通では見られない景色を見ることができる。

「本当にそうだと思います。僕は誰かの世話になるのが嫌。だから、自分で道を切り拓いて、野球も、生活も、言葉の壁もクリアしてきました。普通では経験できないことを経験できましたね。その姿勢は今も変わりません」

 “野球をしながら生きていく”を実践した選手。そんなことが頭に浮かんだ。その言葉を伝えると養父氏は否定せず、さらに続けた。

「でも、野球をしながらほかのやりたいこともずっと続けてきました。音楽もやるし、ハーレーにも乗るし、サーフィンも。野球選手は海に入っちゃいけないと言われたこともありましたが、昔から駄目と言われると余計にやりたくなってしまう。アメリカに渡った時も『 何やってんだ、アイツ』と思われたけど、『 俺はやるよ』と。そういう性分なんでしょうね(笑)」

 養父氏は2005年にアメリカの独立リーグでプレー後、2006年に兄弟エレファンツに復帰。開幕投手を務めるもケガで力を発揮できず。2007年に再びアメリカでトライアウトを受けるも契約に至らず、波乱万丈の現役生活を終えた。

 自身で「どんな野球選手だったと思うか」と問うてみた。返ってきたのは「ほかにいない選手でしょうね」。

 次回、第3話からはユニフォームを脱いでも、まだまだ続くアグレッシブな野球人生を聞いていきたい。

(※文中一部敬称略、第3話に続く)

協力:日本プロ野球OBクラブ

“ほかにいない野球選手”養父鐵。道を切り拓くバイタリティの源は“できる”と思ってしまう性分

■プロフィール
養父鐵(ようふ・てつ)
投手・右投右打。1973(昭和48年)6月26日生まれ、神奈川県鎌倉市出身。帝京三高、亜細亜大、日産自動車を経て、2001年に兄弟エレファンツでプロデビュー。2001年ドラフト6位でダイエーに入団。2003年から2005年はホワイトソックス傘下の球団に所属し、2A、3Aでプレー。その間にベネズエラ、メキシコのウインターリーグにも参加した。2006年は兄弟エレファンツに復帰するもケガで力を発揮できず。2007年に引退した後、2010年にルーツベースボールアカデミーを神奈川県藤沢市に開校。2017年には四国アイランドリーグplus・徳島インディゴソックスの監督を務め、独立リーグ日本一に輝く。徳島からは伊藤翔(西武3位)、大藏彰人(中日育成1位)がNPB入りを果たしている。


取材・文=山本貴政(やまもと・たかまさ)

記事タグ
この記事が気に入ったら
お願いします
本誌情報
雑誌最新刊 野球太郎No.32 2019ドラフト直前大特集号 好評発売中
おすすめ特集
2019ドラフト指名選手一覧
2019ドラフト特集
野球太郎ストーリーズ
野球の楽しみ方が変わる!雑誌「野球太郎」の情報サイト
週刊野球太郎会員の方はコチラ
ドコモ・ソフトバンク
ご利用の方
KDDI・auスマートパス
ご利用の方