鹿児島出身の福留は少年時代、宮崎・串間での中日キャンプで立浪和義のプレーに魅せられ、憧れを抱く。中学卒業後には立浪の母校、PL学園に越境入学。PL学園では1年夏からクリーンアップを任され、2年春には4番打者としてセンバツに出場。チームはベスト4に進出した。
2年秋からは新チームのキャプテンを務め、「4番・ショート」としてプロのスカウトの注目を集める存在に。3年春のセンバツでは「東の澤井、西の福留」と呼ばれた澤井良輔(後にロッテ)を擁する千葉・銚子商と初戦で対戦。互いにホームランが放つなど打撃戦となったが、延長11回の末、7対10でPL学園は初戦で敗れた。それでも、福留の一発は大きなインパクトを与え、超高校級選手としてプロの評価は高まっていった。
3年夏、福留は大阪大会で7本塁打と大活躍。春夏連続の甲子園出場を果たす。初戦の北海道工戦では満塁弾を含む2打席連続ホームラン、3打数3安打6打点と存在感を発揮。チームは準々決勝で智辯学園に敗れるも、ドラフト1位候補として動向が注目されることになった。
迎えたドラフト会議。福留は「巨人と中日以外なら社会人」と公言していたが、7球団が1位指名で競合。くじ引きの結果、引き当てたのは近鉄だった。当時の佐々木恭介監督は「よっしゃー!」と声を上げて喜んだものの、福留は意志を貫き入団を拒否。日本生命へと進むことになった。
福留は日本生命を経て、1998年のドラフト会議で中日から1位指名を受け入団。1年目から打率.284、16本塁打と結果を残し、新人ながらチームのリーグ優勝に貢献する。しかし、課題の守備ではエラーが続いた。守備の悪影響は打撃にも影を落とし、2年目以降は打率は2割5分台に下降していく。
流れが変わったのはプロ4年目の2002年だった。この年、福留は外野手にコンバートされライトを守ることとなる。またこの年から、元近鉄監督の佐々木恭介が打撃コーチに就任。因縁のある佐々木コーチの指導を受け、打撃フォームを改造する。その効果はてきめんで、シーズン終盤には巨人・松井秀喜と激しい首位打者争いを繰り広げることに。
本塁打、打点の2部門でのタイトル獲得はほぼ確実とみられ、三冠王獲得も期待された松井だったが、福留はこの争いに競り勝ち打率.343で首位打者のタイトルを獲得。松井の三冠王を阻止した。一躍チームの中心打者へと成長を遂げた福留は、翌2003年には34本塁打で、初めて30本塁打以上をマーク。走攻守三拍子揃った選手として、チームをけん引していくことになる。
2006年、日本代表に選出された福留は第1回WBCに出場。予選ラウンドから3番打者として起用されるも、準決勝の韓国戦ではスタメンから外されてしまう。しかし0対0で迎えた7回、代打で登場すると試合の均衡を破る先制2ラン。福留の一発で勢いづいた日本は、この回に一挙5点を奪取。そのまま6対0で勝利し決勝進出を果たした。
さらに、福留は決勝のキューバ戦でも9回、満塁のチャンスに代打で2点タイムリーと活躍し、日本のWBC優勝に貢献した。カブス移籍後の2009年に行われた第2回WBCでも日本代表に選出。2次リーグ途中まで主に「7番・センター」で出場した。
文=武山智史(たけやま・さとし)