◆この連載は、高校時代を“女子球児”として過ごした筆者の視点から、当時の野球部生活を振り返るコーナーです。
今も昔も、子どもたちにとってプロ野球選手は憧れの職業だ。将来は広い球場で、たくさんの歓声を浴びながらプレーしたい。そう思っている少年少女は大勢いることだろう。その願いを叶えるために野球が強い高校へ進学したり、昼夜を問わず練習に励んだり、という球児も多い。まさに“野球漬け”の日々。今、プロの舞台で活躍している選手たちのほとんどが、そういう時間を過ごしてきたのではないかと思う。
そんな彼らが時折、こうやって揶揄されることがある。
「どうせ野球しかやってこなかったんでしょ。それしか知らない『野球バカ』」
もちろん、この場合は“そこに打ち込みすぎていて他のことを知らない”という意味ではあるが、多少見下されている感覚は否めない。しかし、私は声を大にして言いたい。
「野球部はバカじゃない!」
プレーから離れた今も、日常的に試合を観戦しているが、改めて思う。本当にバカだったら、野球なんてできない、と。とにかく頭を使うゲームだし、瞬時の判断力も要求される。そこでミスをすれば一気に情勢が傾くことだってあるし、気を抜けばそこを突かれる。「静」と「動」が繰り返されることから、なんだか間延びするスポーツだと思われがちだが、守備につく野手たちだって決して突っ立っているわけではない。配球や打者の特徴をふまえて次の動きをはかっているのだ。
選手をやっていた時、どうしても克服できないことがあった。サインが覚えられない。ベンチから監督が合図を出し、それを元に作戦を組み立てていく。帽子のツバを触ったらこう、胸のあたり、腕、それを何回やったらこれのサイン……。
ある日、顧問に指示された上級生が私に指導をしてくれた。曲がりなりにも二塁手なのだから、牽制のサインを覚えておきなさい、ということだった。個人的にも興味はあったし、ありがたいと思って話を聞く。
しかし、これが覚えられない。理解ができないというよりも、頭が受けつけない。相手に見破られないための合図なのだから当然だが、それでも私には複雑すぎた。結局、きちんと把握できないままで終わってしまったことが心残りで、今でも悔しさがある。
サインだけではなく、外野からの中継プレーにも感心することがあった。ボールが飛んだ位置を見て、何人の内野手が中継に入るかを捕手が決める。1人なら“1枚”、2人ならば“2枚”。ダイレクトでのバックホームが可能と判断すれば、“ノー”と叫ぶ。それを数秒のうちに決めるので、いつも「すごいなあ」と思っていた。こんなに素早い判断は、のんびり屋の私には無理だ。
頭がよくなければ、野球はできない。いつしかそう思うようになった。頭脳戦であり心理戦でもある。ただ投げて打って走るだけのスポーツではないと知ったころから、選手たちに一目置いている。普段の姿がどうかはわからないが、少なくともグラウンド上での彼らは神様だ。
そんな、尊敬する選手たちだが、不思議に思うことがある。自分がプレーしているのにも関わらず、スコアを読めないということだ。私は選手のあとにマネージャーを経験したのだが、試合でつけたスコアブックを渡すと拒否する人がいた。理由は“読めないから”。単にゲーム展開を記号で表しているだけなのに、どうして理解できないのか。この1ページで流れが全部わかるのに――。
ずっと疑問に感じてきたが、今になって思う。おそらく私のサインと同じだ。理屈ではなくて、頭が受け入れないのだ。“野球脳”にまつわる謎は、思いのほか奥深い。