楽天との競合に勝ち、ロッテが西岡剛以来となる「高卒内野手1位指名」で超高校級の遊撃手を獲得。走攻守に才能を見せ、1年秋から仙台育英のレギュラーをはってきた男は小学校入学前から異彩を放っていた。
1本のホームランが平沢大河の運命を決定づけた。
2014年11月18日、神宮球場。仙台育英は浦和学院と明治神宮大会決勝を戦った。初回に仙台育英が1点を先制。3回に追いつかれたが、5回、暴投で勝ち越した。そして7回、2死二塁で平沢は浦和学院の左腕・江口奨理のカットボールをとらえると、打球は右中間へ。文句なしの一発は、ダメ押しの2ランとなった。
「神宮のホームランでプロを意識するようになりました。全国舞台で左投手からホームランを打てたことが大きかったです。それまで進路は何も考えていなくて。神宮が終わってからは(進路が)ブレませんでした」
1年秋は東北大会で敗れ、2年春のセンバツ大会出場はならず。2年夏も宮城大会で敗戦。平沢はずっと自信を持つことができずにいた。しかし、2年秋に神宮球場で打った1本のホームランで進む道を決めたのだった。
平沢は小学校に入る直前にリトルリーグの塩釜ドラゴンズに入団している。父は野球経験者。2歳上の兄と一緒にキャッチボールをしたり、バッティングを教わったりしてきた。
リトルリーグの練習に初めて行った日のことを平沢は覚えている。
「マイナー(1〜4年生)の監督に『投げてみろ』って言われて、近い距離で投げたんです。そしたら、監督がボールを捕れなくて、心臓のところに当って。周りの保護者が笑っていました」
父・政幸さんは「(距離を見て)危ないな、とは思ったんだけどね。まだ幼稚園だから、(監督は)そんなに投げると思わなかったんじゃないかな」。大人の想像を超える投げっぷりだったのだろう。
小学3年のとき、父と兄は遠征へ。平沢は練習日だったため「みんながくるまで待っていなさい」と、練習場に置いていかれた。遠征に行かなかった石田和弘監督が練習場にくると、信じられない光景を目にした。打席で打つマネをした平沢は、打球が外野に抜けたかのように一塁まで走り、ボールが内野に返球されたかのように確認して一塁ベースに戻った。次は一塁を蹴って、二塁を陥れていた。
「そんなつもりはないだろうけど、イメージトレーニングをしていたんでしょうね」。
5、6年生に混じって試合に出ても、遜色なかった。石田監督は上級生に言ったという。
「お前たち、打てないとか何とか言うけど、大河の手を見てみろ。センスだけでやっているんじゃないんだぞ」
物心がついたときからバットを握ってきた小さな手はマメだらけだった。
守備においては、「この状況でここにいないといけない」というプレーを教えなくてもできていたという。内野を守っていても、外野の前にポトリと落ちそうな打球を背走でキャッチ。カバーも言われる前に動いていたとか。
「兄貴と遊んで、マネは得意だったかな。とりあえず、ジーッと見ていた」と父・政幸さん。どこをどう守ればいいのか、どうやって打球をさばくのか。上級生のプレーを見て、身に付けていったようだが、それは幼い頃から自然と養われた観察眼によるものだろう。
大人たちは口々に言っていた。
「ああいうのが、プロに行ぐんだべな」
次回、「仙台育英へ」
(※本稿は2015年11月発売『野球太郎No.017 2015ドラフト総決算&2016大展望号』に掲載された「32選手の野球人生ドキュメント 野球太郎ストーリーズ」から、ライター・高橋昌江氏が執筆した記事をリライト、転載したものです。)