西武が生んだ最高のスイッチヒッターは、松井稼頭央(現楽天)で異論はないだろう。
1994年のルーキー時代に、谷沢健一2軍打撃コーチ(当時)からのアドバイスを受けて両打ちに挑戦。3年目にレギュラー定着すると、4年目には早くも打率3割を達成するなど、非凡過ぎる才能を見せつけた。
安打だけでなく本塁打も年々増やしていき、9年目の2002年には日本人スイッチヒッターとして初の30本塁打超え(36本塁打)を達成。さらに打率.332、33盗塁でトリプルスリーもやってのけるなど、スイッチヒッターの完成形といえる活躍を見せた。
また、松井の両打ちの特徴は、左と右それぞれの打席で人格を変えるところ。右打席では本能を大切にし、左打席では理性を働かせているという。
西武の「最強助っ人」を語るうえで、カブレラとともに名前が挙がるのがデストラーデ。秋山幸二、清原和博とともに西武黄金時代のAKD砲を形成した両打ちの強打者だった。
1989年、バークレオの不振を補うべくシーズン途中で西武に加入すると、デビュー戦であいさつ代わりの本塁打を放つ。その後も左右両打席からアーチを量産し続け、西武時代の4年で合計154本塁打を記録し、本塁打王も3度獲得した。
1試合における左右両打席での本塁打は3度放ったことがあり、その記録は助っ人の記録としてはバナザード(元南海ほか)と1位タイで並んでいたが、その後、セギノール(9度、元日本ハムほか)に抜かれてしまった。
ちなみに現在の指揮官である辻発彦監督とデストラーデは仲がよかったようで、遠征先でカラオケなどに興じた模様。
デストラーデとともに黄金期を支えた選手のなかに、もう1人、名スイッチヒッターがいる。西武黄金期のオーダーを当時の野球ファンは1番から順に「辻、平野、秋山……」と呪文(?)のようにスラスラと口にしたものだが、その文句でもおなじみの平野謙だ。
もともとは1977年にドラフト外で中日に投手として入団した平野。2年目の春季キャンプでコーチから外野手転向を勧められると、一旦は固辞したものの、自信を持って投げたストレートを弾き返されたことで、助言を受け入れ野手の道へ。
3年目から両打ちに挑戦し、あわや戦力外通告という危機を乗り越えながら、4年目からは1軍に定着。結果を残し始めた。
1987年オフには、西武の森祇晶監督(当時)の希望により中日から移籍。トップバッターとクリーンアップをつなぐ2番として定着し、小技と好打が光るスイッチヒッターとして存在感を発揮した。
ちなみに、平野の奥さんが埼玉県生まれだったことから、地元の球団に入ることを喜んだそう。
松井やデストラーデのような派手さはないが、当時のプロ野球史上最多となる451犠打(川相昌弘[元巨人ほか、現巨人3軍監督]が記録更新)という大記録も打ち立てた職人的名選手だった。
見事なまでに歴史的なスイッチヒッターが所属していた西武。かつては赤田将吾(現西武2軍コーチ)、現役では熊代聖人もチャレンジしたことがあった。
簡単なことではないためリスクもあるが、成功したときの見返りは十分すぎるほどに大きい。だからこそ「両打の夢」を追いたくなるのだろう。
そんななかで、目下の注目株と言えばやはり金子侑。27歳にしてスイッチヒッター歴10年を超える現役選手など、滅多に見られるものではない。昨季獲得した盗塁王に飽き足らず、バットでもタイトルを目指して「西武のスイッチヒッター御三家」に割って入るような選手になってほしい!
文=森田真悟(もりた・しんご)