雑誌『野球太郎』の連載でも御馴染み「伝説のプロ野球選手に会いに行く」の「週刊版」。現在、文庫版“伝プロ”も絶賛発売中!
前回の続きです。
相手ピッチャーのクセを盗む技術を、打撃練習のときから磨いていた元阪急の長池徳二さん。その技術をチームメイトに広く教えていたあたり、[ミスターブレーブス]と呼ばれたリーダーシップが感じられます。
リーダーシップといえば、徳島・撫養高(現鳴門渦潮高)時代の長池さんは、エースで4番でキャプテン。1961年春のセンバツ甲子園に出場したときには、選手宣誓を担当したそうです。
「プロ野球選手がたくさんいるなかで、甲子園で宣誓した経験のある者って、数少ないと思います。大変光栄だったですね、今思えば」
長池さんにそう言われてみれば、確かに過去、あまり聞いたことがありません。少なくとも、僕自身、伝説の野球人を50人以上取材していますが、選手宣誓の話が出たケースはなかったです。なにか、特別に貴重な経験談を聞いている感覚になりました。
貴重な経験といえば、法政大時代の長池さんは、当初、ピッチャーだったのが肩を故障したためキャッチャーに転向。その後、「内野をあちこち」守ったもののうまくいかず、最終的に外野手になったといいます。高校時代のエースに始まって、プロ入り前までにひと通り全ポジションを守るなんて、なかなかできないことではないでしょうか。
「というよりかね、最後は監督に『じゃあもう、好きなとこ行け』って言われて外野に行ったんです。最初は、1年生でキャッチャーやるとピッチングばっかり受けて、バッティングさしてもらえないから断っていたし。『キャッチャーはやりません。嫌だ』って言って」
真顔のままで長池さんが言った、その表情が忘れられません。
前回に書いたとおり、プロ入り後、新人ながら西本幸雄監督に意見した方だけに、大学の監督に自分の希望を主張するのはなんでもなかったのかもしれません。「監督に対して断れるものなのですか?」という僕の問いに、長池さんは「断ったの」と答えるだけでした。
その大学時代、本塁打は通算3本。4年間で目立つ勲章は、3年生の秋に首位打者を獲得したことぐらい。プロで本塁打王3回、通算338本塁打という実績からすれば意外なのですが、だからこそ長池さんは、<僕は作られた4番バッターなんです。青田昇によって>という言葉を残したのではないかと思います。
さて、その本塁打ですが、初めて長池さんが40本を超えてタイトルを獲ったのは、プロ4年目の1969年。前年まで、パ・リーグの本塁打王は8年連続で野村克也(南海ほか)が獲得していたのを、ついに打ち破ったわけです。
「僕がプロに入った当初からずっと野村さんでしたから、『よっし、なんとか俺が』って思いまして、“打倒野村”でやってたところがやっと超えられた。そういうことで、僕、常にホームランを意識して、練習のときから『スタンドへ』っていう気持ちで打ってました」
実は長池さん、“打倒野村”でやり始めたときから、「好きなところだけ待って、全打席ホームランを狙っていた」そうです。
そういうバッター、今ではまずいないでしょうし、当時でさえ、そこまで極端なバッターは他にいなかったのではないか……。
と思って僕は、「長池さんのなかでは、ヒットの延長がホームランという考え方はなかったわけですか?」と聞きました。するとやっぱり真顔のまま、長池さんは答えました。
「打ち損ないがヒットですね、僕は。打ち損なわなければホームラン。それは僕だって、真芯でとらえてヒット打てば、気持ちいいですよ。でも、打球が上がらなかったということは、とらえる角度がもうひとつよくなかったんだな、と考えて。『よーし、次はホームラン』って思ってるんです。いやっはっはっは。欲張った考えですかね? 僕、欲張り過ぎですかね? 今思えば」
照れ笑いも混じりつつ、長池さん独自の打撃が解説されました。
あらためて生涯成績を見ると、全打席ホームランを狙った結果として、1967年の27本塁打に始まって、75年の25本塁打まで、実に9年連続で25本以上を記録しています。
75年といえば、パ・リーグに指名打者制が導入された年。長池さんは阪急初のDHになって、同年創設されたDHのベストナインに選出されています。その結果から、前例のない役割にもすんなり順応できたと想像できるのですが、当時の現実はそうではなかったようです。
「DHは守らない。守らないと体力が落ちますね。それと、自分のリズムがなくなる。だから指名打者っていうのは、選手にとっては救済措置なんでしょうけど、できれば、ならないほうがいいですね。守って、リズムをつかんで、っていうのが本当の野球じゃないですかね」
長池さんは、にわかに厳しい表情になって話を続けました。
「当時の指名打者っていうのは、要するに、守りが下手な人。打てるけど守りは下手、という人が行く場所だったんです。それで僕、初めて『指名打者だ』って言われたときには、これはもう野球じゃないと思いました。でも、誰かがやらなきゃいけない。特に僕は、外野手として肩もあまりよくなかったし……」
DHがメインになって以降、本意ではないまま、試合に出ていた長池さん。「でも、誰かがやらなきゃいけない」という言葉に[ミスターブレーブス]らしさが出ていると思いましたが、76年には打率2割3分台、12本塁打と成績下降。翌77年には出場試合数が半減していました。
「これで野球はもう終わったな、と思い始めたら、急激にガタッと成績が落ちてしまいました。やる気がなくなって、気持ちが乗っていかなかったですね。そういうとき、支えになるものがあればまだよかったんですけど、それもなくて。僕、35歳で現役をやめました」
結局、長池さんは79年限りで現役を引退。打撃の実績からして、打つこと専門のDHは適任だったのかと思いきや、かえって不本意だったとは……。
ただ、そこで再び頭に浮上するのが、<僕は作られた4番バッターなんです>という言葉です。
高校時代はエースで4番で、大学ではほぼ全ポジションに就いて、どちらかといえば好打者タイプ。しかもプロ4年目に21盗塁をマークするなど、もともと走攻守そろっていた長池さんだけに、「守らないで打つだけ」の野球は、初めから受け入れがたいものがあったのだと思います。
最後に、長池さんの野球観をはっきりと表す言葉を紹介しておきます。
「やっぱり打って守って、下手でもいいから守ってね、なんとか、ボールを追っかけるっていうものがないと、本当の野球ではないんじゃないか。だから、思えば、西本さんのときにはね、開幕で僕は、捻挫して、走れなくても、『ライトを守れ』って言われて守ったんです。そういうのが、僕は野球だと思いますね」