水戸商時代、川口知哉(元オリックス)、能見篤史(阪神)と並んで、「高校生左腕三羽ガラス」の異名をとった井川。甲子園出場がなくともドラフト2位で指名され、その実力はかなり高かった。
井川といえば、ドッシリとした太もも・腰がストロングポイントだが、実は高校時代の自転車通学によって鍛えられたものだという。
井川は実家の大洗町から学校がある水戸市までの片道約15キロを自転車で通っていたが、マイペースな性格で気づけば時間ギリギリということもしばしば……。そのたびにママチャリをかっ飛ばし、ほぼ「立ちこぎ」で走破していたのだ!
さらに自転車エピソードは他にも。2013年のオリックス時代、キャンプ地の宮古島で井川は減量を兼ねた自転車通勤を開始。「気持ちいいから」と宿舎から球場間をホテルのレンタサイクルで通いだした井川だったが、ある日突然自転車がママチャリがロードバイクに大変身。
ママチャリに乗るプロ野球選手を見かねた地元ファンが「これに乗れ」とロードバイクを貸してくれたのだった……!
私生活でこだわりのあまりない井川だが、それは家も同じだった。若手プロ野球選手は球団の寮に住むしきたりがあり、井川も若手時代は阪神の合宿所「虎風荘」に住んでいたが、なんと年俸が1億円を超えても簡単には出ていかなかった。
理由は単純明快で「快適だから」。プロ野球選手の多くが、門限などの規則が厳しい寮から早く抜け出そうと、あの手この手、ときには結婚してまで退寮を目指すものだが、井川は寮にと根を張った。
2003年の優勝後、さすがに追い出されたが、そのときも「甲子園の駐車場にプレハブを建ててほしい。そこに住む」とゴネたのだとか……。
ちなみに2012年、日本球界に復帰した際も家が決まるまでの間、オリックスの選手寮に入寮。「僕は寮生活が大好きです」と語り、嬉しげだった。
球団から支給されたのぞみのグリーン車の切符をひかりの自由席の切符に変えて差額を貯金するなど、プロ野球選手らしからぬ倹約肌の井川。若手時代には月わずか1万円で生活。その1万円も内訳は大好きなゲームソフト2本で終わり。
当時監督だった野村克也氏いわく「寮に引きこもっていた」らしく、同僚選手たちも「井川は部屋でゲームをするか、ビデオを見ていた」と口を揃える。
今でこそ、漫画・アニメ・ゲームのサブカルチャーを好む「オタク」であると明言する選手も増えているが、実は井川が初代オタクプレーヤーであるという説も根強い。大阪・日本橋で中古ゲームを買い漁る姿がよく目撃されていたという。
注目の新作ゲームが発売された週の登板は、鬼気迫る投球で21時前に試合が終わることが多く、「井川は早く帰ってゲームがしたいから、すさまじい投球をした」といわれることも……!
またパソコンが普及しはじめた時代にいち早くノートパソコンやデスクトップを揃え、前出の「虎風荘」にネット設備を導入させた張本人でもある。当時、現役晩年の和田豊にパソコンの使い方をレクチャーしていたという情報も。時代の一歩先を行く男である。
その他にもダーツ、ラジコン、将棋など趣味は多彩。サッカーも大好きで、2012年にはアーケードのサッカーカードゲームで全国大会に進出したことも……!
阪神入団時に好きな球団を聞かれ、「鹿島アントラーズです」と答えた……など、井川伝説にはホントかよ!? と疑いたくなるようなものも多い。
しかし、井川慶ならありえる。そう思わせる稀代のトリッキーエースは新天地でどんな伝説を作るのか。ファンの一人として、復活を心から楽しみにしている。
文=落合初春(おちあい・はつはる)