プロ野球は“銭闘”シーズンたけなわ。年棒アップを勝ち取って笑顔で会見する選手、非情なダウン提示に憮然とする選手、悲喜こもごものニュースが毎日報じられている。
基本的に、選手のアピールの場はグラウンド。プレーの結果をもとに、金額交渉していくしかない。だが、過去には巧みな交渉術で金額アップを勝ち取った「銭闘上手」な男たちもいる。3つの事例で振り返ってみよう。
1986年オフの契約更改で、投手として初めて1億円プレーヤーになったのが東尾修(元西武)だ。長年に渡る成績もさることながら、意地とプライド、そして巧みな話術で勝ち取った1億円だった。
というのも、当初の提示額は9000万円台。どうしても「球界初の1億円投手」という肩書きが欲しかった東尾は、「足りない分は自分で払うから、どうか『1億円』を提示して欲しい」と粘り、熱意に折れる形で1億円に上積みされたのだ。
ただこのエピソード、「足りなかったのは100万円」「200万届かず」「いや、500万円だった」といった感じで、元々の額は今ひとつ定かではない(東尾自身のコメントにもブレがある)。仮に足りなかったのが500万円以上であれば、「東尾の交渉が実った」と捉えることができるだろうし、100万円であれば「あとから1億円にした方が喜ぶはず」と最初から金額アップを想定した上での提示だった、とも捉えられる。ホントの交渉上手はどちらだったのだろうか?
2007年オフ、当初の提示額よりも300万円の上積みを勝ち取ったのがヤクルトの館山昌平だ。
1980年代後半から1990年代前半にかけ、中継ぎ投手の先駆けとして活躍したのが清川栄治(元広島ほか)だ。漫画『グラゼニ』の主人公、凡田夏之介のモデル、ともされている。
当時の球界は、中継ぎ投手への評価が今ほど高くなかった時代。どんなにいい成績をおさめても年俸がなかなか上がらないことに、清川は憤りを抱えていた。
そんな折、清川は野球雑誌で「インヘリテッド率」という数値を知る。インヘリテッド率とは、自分の登板時に生還した走者の数を、前の投手から引き継いだ走者の数で割る、というもの。数字が低いほど引き継いだ走者の生還を許さなかったことを意味している。ピンチでマウンドに立つことが多いリリーフ投手の能力を示す最適なデータだった。
清川はこの「インヘリテッド率」のデータなど、懇意にする新聞記者から集めた独自の記録集を持参して契約更改へ。資料を見た球団社長は「おまえ、自分の仕事に自覚を持ってやってるな」と興味を示し、見事に年俸アップにつなげたという。
最近は、「大幅ダウン」「限度額以上の下げ幅」といったダウン提示の方がニュースになることが多い。だが、夢を売る商売である以上、もっともっと「年俸アップ」のニュースが増えて欲しいとも思う。このオフ、ここで取りあげた技以上の交渉上手、銭闘上手な選手は現れるだろうか?
文=オグマナオト(おぐま・なおと)